横浜鉄人クラブと私の25年 -2- | キヨ |
第1話の後、JRさん、つかさんからのご連絡で、
・第1回目のミーティングは12月27日、場所は横浜そごう内の喫茶店であること、
・初回の練習は12月29日、本牧の高速道路の下(当時はまだ高速はなかった)、間門交差点と本牧市民公園付近往復
と判明しました。横浜鉄人クラブの誕生日を確定することが出来ました。
第2話 「実績を作ろう」
自称「太目の細野」、またの名を「レッドポスト細野」(=つか命名)。6人の輪の中心になっていた人です。恐らく、この人がいなかったら横浜鉄人クラブは生まれることも、育つこともなかったかも知れません。鉄人クラブが発足した時、トライアスロンのレース経験者は細野さんお一人だけでした。名前のとおり、トライアスリートにしては太めで、横浜中央郵便局にお勤めでした。クラブの母体となった自転車店のオーナーの方とお親しかったため、そのオーナーから薦められて発起人になられた、と記憶しています。企画、運営、行動力、人心掌握…。あらゆる点で優れた方でした。
当時、鉄人クラブ員だけでなく、日本全国のトライアスリートを目指す人たちにとって、喫緊の課題は、いかにしてレースに出られるか、ということでした。その年の4月に、宮古島がテレビ放映され、一挙に人気が高まったのはいいのですが、全国でもレースは数えても両手ほどしかありませんでした。参加許可を得られる基準は、レース経験のある人が優先。せめて先着順でしたら、未経験者も多少のチャンスはあるのでしょうが。これでは経験者は益々経験を積み重ね、未経験者はいつまで経ってもレースに出られない、まるで、現在の格差社会の広がりを予兆させるようなものでした。
レースや募集参加人数が増えるか、経験者が後進に道を譲ってくれるか、そんな他力本願の淡い期待しか持てませんでした。しかも、当時は参加申し込みの時点で、負荷心電図で異常がない旨の診断書原本を提出しなければなりませんでした。費用は1通5,000円ほど。出られる可能性が極めて低いにもかかわらず、だからと言って、申し込みをしない訳にも行きません。まさに、金を失う鉄人の象徴でもありました。結局、1986年の宮古島は、クラブからは誰も出られませんでした。「レースに出られないのならば、自分達で何か実績を作っていかなければいけない」。中心になって動かれたのが細野さんでした。
先ず、1986年3月、千葉県柏市で開かれたミニレースへの参加枠を取ってきてくれました。スイムはプールで500m、バイク、ランは利根川の河川敷でそれぞれ20km、5kmだったと記憶しています。レッドポスト細野が監督的立場で、JR佐藤、ファイヤーつか、ペリカン若林、エレキ鈴木、リース田中の5名が参加しました。レースといっても、実際は練習会程度のものですが、それでも、スタート前には腕にマジックでゼッケンナンバーを書かれ、クラブ外の人達と泳ぎ、走る、ということで、気分はすっかりトライアスリート。プール脇で、男5人が並んで、腕にかかれたゼッケンを誇らしげに見せつけている姿は今でも目に焼き付いています。このレースで、つかが好成績を挙げ、その完走記がトライアスロンジャパン誌に掲載されました。横浜鉄人クラブが世間に認知された第一歩だったと思います。そして、その年、細野さんとつかの二人が皆生に参加。身近に本格的なトライアスリートが生まれ、意気は揚がって行きました。
鉄人クラブのメンバーも少しずつ増えていきました。ただ、やはり実績のない者の不安はなくなりません。練習してもいつになったらレースに出られるのだろうか。そのため、実績作りのクラブのイベント、練習会。細野さんを中心に、次々に計画され、実行されて行きました。
葉山では、スイム3km、バイク112km、ラン16kmで、『大練習会』が開催されました。道路使用許可を得ていないので、大会とは名乗れない為、Tシャツの前面に種目と距離を印刷。さらに胸に、『練習』を緑、それを挟んで左に『大』、右に『会』を赤で印刷、袖にはFINISHERの文字、あたかもロングの大会の物かと見まがうような完走Tシャツまで作りました。佐渡や宮古島、海外のアイアンマンなど、参加することがそれ程困難でなくなった今では考えられないかも知れませんが、当時は真剣に、どうすれば実績を作り、それをアピールできるか、ということに知恵を絞り、労力をつかっていました。
実績作りの次の作戦は、西湖でのデュアスロン練習会の開催でした。バイク130km、ラン20km。特にバイクの距離は、宮古島、皆生を意識したものでした。このデュアスロン、今はクラブ内の練習会ということで、参加者の公募はしていません。しかし、第1回は、トライアスロンジャパン誌を通じ、クラブ外から若干名か参加者を募集しました。その目的は、レースに参加する機会のない人にも来てもらおう、ということもありましたが、むしろ、これだけの行事を行えるクラブだということ、そしてクラブ員としてその距離を十分完走できるのだということを実績として残す為のものでもありました。
当時、実績のない予備軍がトライアスロンへの参加許可を得る為の手段として、「嘆願書」が重宝されていました。これも今では考えにくいことかも知れませんが、大会本部宛に、その大会に対し自分がどれ程の思いを持っているか、公のレース経験はないけれどそれに替わる練習実績がどれ程あるか、ということを最大限アピールする文書を、申込書に添えて送ることが大切と思われていました。申込時の正式な必要書類には入っていないのですが、どれだけ思いを伝えられるか、何枚も書いたものでした。それは、このデュアスロンへの参加応募されてきた方にも共通したものでした。一クラブの、練習会への参加に対しても、多くの方が、様々な思いを綴って来られました。どのように実績を作り、大会参加へ繋げられるか、苦心しているありさまが伝わって来ました。やはり、嘆願書は、単なる噂だけでなく、実際に当時の全国のトライアスロンに憧れる人たちにとって、大会参加許可を得る為の重要なスキルであり、手段であったのです。インターネット一つで簡単にエントリーできる今となっては、懐かしいものでもあり、一方、申し込みの段階から決意と意欲を持って書類を送る人は少なくなってしまったでしょう。
そんな努力にもかかわらず、琵琶湖のアイアンマンジャパンを始め、ロングの大会への道は閉ざされたままでした。参加さえ出来れば完走はできるのに、晴れて鉄人と名乗れるのに、そんな思いを抱えたまま、いつ実現できるとも分からないレース参加へ向け、練習だけは続けていました。そんな時期があったからこそ、今でも中途半端な状態ではレースへのエントリーは出来ないと思っています。私は、トライアスロンは特別なスポーツとは思いません。普通の体力と目標達成意欲さえあれば、誰にでも完走はできるものだと思います。また、スポーツに精神論を強調することも好きではありません。それでも敢えて言うならば、トライアスロンには心から真摯に向かい合わなければいけない、と思っています。
トライアスロンの大会は、多くの人の労力と心配りがあってこそ開催できます。安全対策のためにも多くの人の支えが必要です。おそらく、大会関係者は誰しも、参加する人が事故なく、完走されることを願っているはずです。勿論、参加する人はそれぞれの動機や目標があっていいのですが、レースに際し、格好良いからとか、何とかなるだろうとか、ウェットスーツがあるから大丈夫、というような安易な臨み方は避けてもらいたい、と思うのです。これは、たとえ誰から、どう言われようとも、私は言い続けていきます。
万全の準備や心がまえを持っていても、事故は起こりえます。細野さんも、そのお一人でした。トライアスロンに強い思いを持っておられました。横浜鉄人クラブの為にも、本当に精力的に動かれました。好きでなければ出来なかったでしょうし、好きだけでも出来なかったでしょう。そんな細野さんも、湘南のレースでのゴール直後に倒れられ、不帰の人となりました。月並みな表現ですが、短い間にトライアスロンを全速力で駆け抜けて行かれました。今では久保山でゆっくり休まれています。練習中であろうが、レース中であろうが、トライアスロンにかかわっている間には、二度とこのようなことはおきて欲しくないのです。