横浜鉄人クラブと私の25年 -1-キヨ
 今年12月、横浜鉄人クラブは満25歳の誕生日を迎えます。誕生当時、日本ではトライアスロン(というよりは、鉄人レース、と言う方が一般的だったように思います)は、まだまだ黎明期。それから四半世紀。私はクラブを暫く離れていた時期がありましたが、これほど長いお付き合いになるとは、思っていませんでした。そこでこの25年間の、横浜鉄人クラブと、トライアスロン、そして私を振り返ってみよう、と思い立ちました。なお、話の90%は事実に基づいていますが、2%の脚色と、8%の記憶違いはある、かも知れません。お読みいただいて、誤っている所や、補足していただける所がありましたら(きっとある、と思います。特に、第1回ミーティングの日にちを覚えておられる方)お教えください。クラブの来た道を正しく残したい、と思いますので。


第1話 アウターは使わない

 1985年12月。暮れも押し迫った金曜日の夜、横浜駅東口、『そごう』への階段を下りた直ぐ右奥の喫茶店で、20歳位から30歳代の男性6人が、コーヒーを飲みながらテーブルを囲んでいます。彼らの服装はまちまちで、勤務先や取引先の関係ではなさそうです。かと言って、友人の集まりにしては、年齢がばらけており、多少の緊張感も伝わって来ます。そんな6人の輪の中心にいる男性は30歳半ば近く、やや強面で、小太りのがっしりした体格にもかかわらず、終始にこやかに話を続けています。どうやら、この人が進行役を勤めているようです。見渡してみると、服の上からも筋肉体質が窺える、引き締まった顔の20代後半のイケメン男性がいます。30歳を少し過ぎたくらいの男性は、多少うつむき加減に微笑みながら皆の話に聞き入っています。後の3人は、繊細な感じを受ける30歳くらいのメガネを掛けた細身、控えめな20歳くらいの学生風、多少くたびれた背広を着た28歳、といった面々です。しかも、よくよく聞いてみると、皆、殆どがその日、初対面のようです。そんな一見、何の共通点もない男達。一体何を企んでいるのでしょうか。少し聞き耳をたててみましょう。

 「アウターは使わないほうが良いですよ。」
誰かが言いました。
「アウター、って何ですか?」
くたびれ背広男が尋ねています。
アウターとは、自転車の、前のギアの大きい方のことだそうです。彼は、1ヶ月ほど前に生まれて初めて買ったロードレーサーの、後輪だけでなく、ペダルのついている方も2段ギアになっていることに驚いたそうです。何故なら、それまで乗っていたサイクリング車には後の車輪に5段のギアがついているだけだったから、です。

 「最初は、アウターを使って重くすることなく、ペダルをくるくる回す感じを覚える方がいいです。」
とのアドバイス。くたびれ背広男は、手にしていた手帳のメモ欄に『アウターは使わない』と書きました。手帳を覗き込んでみると、その上の行には、『横浜鉄人クラブPIEA21』と書かれています。『鉄人クラブ』。鉄道好きの人たちの集まりでしょうか。確か、先ほどの話の中では、メンバーの中に、横浜駅に勤めている人がいるようです。それにしては、ロードレーサーや、水泳、ランニングの話題が中心になっています。とすると、彼らは今、ブームになろうとしている、あの鉄人レース、トライアスロンを愛好する人たちの集まりなのでしょうか。

 「クラブの名前をどうしようか」。簡単な自己紹介の後、話題は移りました。「先ず、地名をつけよう」。横浜にしようか。神奈川もという選択肢もありましたが、響きとイメージの良さから『横浜』が採用されました。『鉄人』は憧れからです。このメンバーの中では未だ、鉄人レースを完走した人はなく、鉄人という名称をつけていいかどうかとの話も出ました。また「鉄人」は「お金を失う人」と書くので縁起が悪い、という話も出ました。が、憧れには勝てません。最後の『PIEA21』は、自転車店の名称から付けられました。横浜そごう店内にあった自転車店です。横浜市北幸町にあった島田サイクルの支店で、トライアスロンをしたくてその店でロードレーサーを買った人たちが集まっているからです。

 「テレビで一度は見たけれど。」、「話には聞いていたけれど。」、「トライアストンって、一体、何?」。 今ここにいる誰もが、未知のトライアスロンに、「これからどう取り組んでいけばいいのか。」、「どうすればレースに出られるのか。」、多少の不安もありながら、それでもわくわくし、そして強い思いを持って来ています。そんな6人が集まり、この日、クラブが産声をあげました。名称は、『横浜鉄人クラブPIEA21』。

 ところで、何故、この時期にトライアスロンなのか。きっかけは、その年の4月、沖縄県宮古島で、鉄人レース『ストロングマン』の第1回が開催され、その模様がNHKで終日放送されたことだろう、と思います。それまでは国内で鉄人レース:トライアスロンと言うものは、殆どの人には知られていませんでした。

 私は1981年8月に皆生で国内初のトライアスロン大会が行われたことは当時から知ってはいました。面白そうだとは思っていました。ただ、その年の4月に社会人になったばかりで、運動からは遠ざかっていた時期でもありました。また、その頃から、少しずつ市民マラソンが広がりを見せ始めていました。走ることは好きな私でしたが、大学1年まで陸上部にいたことから(専門種目は400、800mでしたが)「今さら市民マラソンなんて。」というつまらないこだわりから抜け出すことが出来ず、素直に走ることは出来ませんでした。そのうち何時の間にか走ることも、トライアスロンもすっかり忘れたふりをして、会社と飲み屋で一日の内20時間くらいを過ごす、という生活に陥って行きました。

 それから4年、サラリーマン生活にも慣れ、新入社員の時に買った背広も多少くたびれてきた頃、もう一度、何かスポーツをやってみたいなぁ、との思いが湧き始めてきました。その時、出くわしたのがストロングマンの映像でした。実際のトライアスロンを、テレビを通じてとは言え、目の当たりにし、思いました。「これなら出来る。」それは、体力的なことよりも、気持ちの整理の問題でした。先にも述べましたが、社会人になってからずっと「走りたいけれど、素直に走れない。」との思いはくすぶり続けていました。しかし、「トライアスロンのランなら3種目の中の1種目でしかない。」と思えることで、入り込むことができました。スイムは、クロールは出来ませんでしたが、平泳ぎなら2時間ぐらいは泳ぎ続けることが出来ました。また、子どもの頃、瀬戸内海海岸沿いで育ちましたから、海への恐怖心は全くありませんでした。ですから、練習すればきっと泳げるようになる、と確信していました。自転車は道を走り続ければ良いのです。

 大学1年で陸上をやめてからの、9年間のもやもやが一気に晴れました。そうと決まれば、後は動き出すだけです。手始めはランからです。靴さえあれば、と思っていました。ところが折からの健康ブームで、10年ほど前とは大違い。スポーツショップに行くと、実に様々なランニングシューズや色とりどりのウェアが並んでいるのには驚かされました。殆ど浦島太郎状態でした。水着はあまり迷わずに済みました。さて、バイク。これは自分だけで選ぶことは出来ませんでした。何故、自転車店でPIEA21に行ったのか、今となっては定かではありません。きっと、雑誌か何かで知ったのだと思います。

 誰しも言うことですが、出会いなんて不思議なものです。余り定かではないきっかけで行った店でしたが、当時、店には女性アスリートとして活躍していた方がアドバイザーでいらっしゃいました。その方から、いろいろ教えていただきながらその店オリジナルのロードレーサーを購入。7万円でした。さらにその時、その店でトライアスロンチームを作る予定だと教えてくれました。練習方法も、何かも分からなかったものですから、当然、チームに入れてもらおうと、名簿に名前を書いて帰りました。1985年11月でした。それから凡そ1ヶ月、いつになったら連絡が来るのだろう、と待ちわびていた時、一本の電話が入りました。
「細野と申します」。
それが初めてのミーティングで進行役を務めてくれた『太目の細野』さんとの出会いでした。もし、自転車を別の店で買っていたら、1985年12月の金曜日の夜、筋肉質のイケメン「ツカ」さん、微笑んでいた「JR」さんとの出会いはありませんでした。そして、くたびれた背広を着た私は、手帳に「アウターは使わない」と言うメモを残すこともありませんでした。

第1話 終
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