2009-11-23最後のフルマラソンmoto

第22回大田原マラソン大会
2009年11月23日(月・祝)天候:晴れ
記録:3時間12分55秒 総合順位 464位/1562人

距離	5キロ	10キロ		スプリット	種目順位
   5Km 	21:12			0:21:12 
  10Km 	20:41	41:54		0:41:54		442位
  15Km 	21:28			1:03:22
  20Km 	21:59	43:27		1:25:21		455位
21.1Km 		      1:30:01
  25Km 	21:52			1:47:14
  30Km 	23:08	45:00		2:10:23		479位
  35Km 	24:17			2:34:40
  40Km 	26:10	50:28		3:00:51		453位
42.2Km 	12:04	      1:42:54	3:12:55		453位

 私にとってのマラソンとは、3時間を切って走る事、それがマラソンを走りきるという事を意味している。そして現在、マラソンを走るには実力不足だという事実が分かった。のどかな田園風景のなか、10キロを過ぎ、徐々に塚越から離れていった。既に15キロ地点で当初の目論見から大きく外れてしまっていた。

 今年は良く走った。本来なら昨年でマラソンは終わりのつもりでいた。しかし、自分の走りに納得できず、もう一度だけサブスリーにチャレンジしてみようという気になった。それは、女性ランナーが21分台のラップを刻みながらきっちりとサブスリーを達成しているのを見たからだった。月例マラソンの知り合いも、60歳を前にしながら、同じ様な走りでサブスリーを達成していた。それなら私もそれに倣ってみようと思った。それにはスピードは要らない。42キロを最後までしっかり走れる力があれば良かった。

 なにしろ今年は良く走った。しかし走るだけではなかった。休養を取って疲れを取った。9月下旬から10月終わりまで毎週120キロはこなした。自分で出来る事は全てやったつもりだった。毎週境川沿いを走るのが楽しみになっていた。走る事は楽しく苦痛ではなかった。直前の1週間前になれば、もはや調整期間。アイアンマンに臨む様に、やる事は全て終わり、あとは疲れを取り、万全の体調でレースに臨む事だけを考えた。

 大田原にはスペシャルが置ける事に気が付いた。ペットボトルを集め、目立つ様に飾り立て、分かりやすい様に工夫した。内容物には距離毎にその時の状態を考え、変化を付けてみた。大田原まで行く切符は企画のチケットで安く行けるものがあるが、私は指定席でゆったり行く事を選び、格安チケットを買うのはやめた。往復で倍くらいの値段になってしまった。しかし、朝はのんびり、ゆったりと行けた。目的達成のためには出来る事は全てをやったつもりだった。

 私はあくまでも挑戦者という立場。サブスリーに挑むつもりで、気負いなどは無いが気の緩みも無かった。自分のできる事をそのまま全てやるだけ、レースに臨み、緊張感などは無かった。1週間前くらいの天気予報では、当日は雨も予想されたが、前日には晴れの予報に変わった。当日那須塩原駅に着くといい天気、日差しも差していた。暑くもなく、レースコンディションとしては最高だった。

 スタート10分前、用意を終えて体育館を後にする。最後にトイレに行こうとするが、どこにも行列ができていた。仕方なく、アップの時に下見しておいた場所で、木の陰に隠れて済ます。スタートの列は一番大外、先頭からは5mくらいの位置に並んだ。あまり外側だとトラックからはみ出してしまうので、少しずつ隙間を見つけて中に入って行った。スタートまであと5分、気が付いたらあっという間に10秒前のコールがあった。気を引き締めてスタートする。

 最初にトラックを1周、いつも1分40秒程度で走っている。今年は48秒、やや遅いが、今年はこのペースで十分。何しろ5キロは21分ペース。21分15秒ならば目標にぴったりである。それで行ければいい。出だしは上々。あとは5キロまで距離表示は無い。しかし、4キロ過ぎの交差点のおおよそのタイムは出ている。昨年は17分台。無理のないペースで走っているので、多少遅いだろうとの思いはあった。交差点の通過はちょうど18分になるところだった。昨年より30秒程遅いくらいか、予定通りだった。確か、昨年の5キロは20分40秒くらいで通過しているはず。その先の5キロ地点は21分12秒、予定通りのタイムだった。このあたりはやや向かい風、南東の風、1.3mということだった。そこそこに吹いている感じ、辛くはない。交差点を左折すると右横、あるいは右前方からの風という感じで、気にはならなかった。

 気になったのは、後ろを走るランナーの足音だった。私のペースでは最初のうちはどんどん抜かれていく。それも承知の上で走っているので全く気にならない。しかし、その足音の主は、一向に私を抜いて行く気配が無い。「ひょっとしたら」と後ろを振り返ると、案の定、そこには塚越が居た。私の後ろを走られるのが嫌だったわけではない。私のペースは21分ペースだから、遅いという事を伝えるつもりだった。それを伝えた後、暫く塚越と並走する。もうひとり、ゼッケンに書かれた年齢は60歳、小柄ないかにも走り込んでいるランナーがずっとそばにいた。この2人のランナーには最後まで付いて行きたかった。しかし、私はこの2人に10キロ手前あたりから少しずつ離され始め、15キロを過ぎた時には全く見えなくなっていた。10キロは20分41秒、下り基調のコースなので、それを意識して走った。10キロで42分、予定通りだった。

 10キロの先、右折したところに最初のスペシャルがある。私のナンバー「8600」は最初のテーブル。しかも私の番号がいちばん最後。そのため、端の方に置かれていて見つけやすい。カラフルなモールを付けて、長いストローにナンバーを付けて分かりやすくしたつもりだったが、みんなも派手に飾り付け、あまり目立たなかった。最初のボトルはスムーズに取れた。ここにはドリンクはレッドブルをそのまま、ボトルにパワージェルを貼り付けた。貼り付けたままジェルを食べ、レッドブルで流し込んだ。まだまだ食べて、飲んで嫌にはならない。

 塚越、年配のランナーは数m先に見えていた。暫くは、付かず離れず、できれば近づきたいと思いながら走っていたが、15キロ地点ではどこに居るか見つけられなかった。15キロは小学校の手前。自分では辛いとは思っていなかったが、やはり走りは重かったのだろう。塚越からは離され、ラップタイムは21分28秒、スプリットが1時間03分22秒。ちょっと時間が余計に掛かってしまった。しかし、これも誤差のうち、と思ってやり過ごす。次の20キロまでの5キロで予定通りに走れればいいと思っていたが、ここは上り基調のはず。例年タイムは良くない。しかし他の部分と比べると民家も多く応援もたくさんいる。老人ホームもあって、毎年椅子に座って大勢で応援してくれている。もう1周走って来た時に、どれ位のペースで走っていられるだろうかと思いつつ、前を追いかける。

 18.5キロで左折、カーブをいくつか曲がって大通りに出る。このあたりは19キロ地点か。間もなく20キロ、そしてスペシャル、中間点と続く。20キロ地点は22分掛かってしまった。徐々にペースダウンしている。そしてここのスペシャルは、クエン酸のスポーツドリンクでカーボショッツを溶かしたもの。甘いものを酸っぱいドリンクで解いた。味は酸っぱく、悪くない。アイアンマンでも実績があった。

 大通りから左折して周回コースに入る。中間点を通過、時計を見ると、ちょうど1時間30分。なんと半分の距離を目標の半分のタイムで通過した。まだまだ諦めてしまうタイムではなかったが、なかば3時間は無理と思えるタイムだった。2周目となったコースを走り、次の目標は25キロ手前の交差点、1周目ではちょうど18分だった。ラップタイムでどのくらい落ち込んだペースで走っているのか、はっきり分かるところだ。2周目、18分30秒程だった。1周目でも遅かったところに、更にペースダウン。その先の25キロのラップは前ラップとほぼ同じおよそ22分。走りは軽快とは言えなくなってきている。その先のスペシャルで元気が出る事を願う。

 レッドブルとカーボショッツのワイルドビーン、カフェイン入りの特別版である。眠気も飛んで行ってくれる優れもの、元気が出た様な気がした。次の30キロまでは下り基調。奇跡的に目標の21分でも出てくれることを願うが、そんな事は望める様な走りではなかった。しかし目標に届かないと言って諦めた走りをする訳にはいかない。自分の最後の走りで後悔する訳にはいかなかった。最後までしっかりと走り切るつもりでいた。30キロのラップは23分台まで落ちていた。その時はスプリットまで確認していなかったが、2時間10分を過ぎている。当初の予定では、30キロは2時間6分で通過するつもりだった。目標からは大幅に遅れてしまっていた。

 30キロのスペシャル地点は1周目の10キロに続き2回目のスペシャル。係員が2人いた。私の姿を見て、スペシャルの存在を確認した様だった。手を挙げて取る事をアピールする。取り易いように用意してくれて、走りながらスムーズに受け取る。

 30キロも走ると、一般のランナーはだいぶペースダウンしている。私もそのうちの一人かもしれない。私の横を気持ち良く走り抜けて行くランナーと、ペースが落ちてしまったランナー、もはや走れなくなってしまったランナーが同じ視界に入ってくる。1時間前の景色とは大きく変わってしまった。立ち止まらない事、諦めない事、走りきる事、そう思いながら脚に負担を掛けないような走りをする。ペースの落ちてしまった私にも抜かれていくランナーがいる。きっと辛いだろうなと思いつつも、私も似た様なもの。同類だと思うが、同情まではできない。せいぜい最後まで行けよと思うくらいだ。今まで後ろで確実な走りをして来たのだろうか、何人もの女性に抜かれる。私の前をどんどん差が付いて走り去る女性が羨ましい。

 走り慣れたコースだけにコースの風景は忘れていない。35キロ地点まではまだまだ遠い。そろそろ残りは10キロ、9キロ、少しずつ距離が減って毎日の練習のコースに重ねてゴールまでを思い描く。2回目の小学校手前の角、やっと35キロ地点。残りは7キロ。コース脇に立てられた制限時間を示す看板にも目が行く。35キロ地点、3時間30分。自分は大丈夫か?と心配にもなってくる。かなり弱気になってきた。

 キヨさんは今回10キロに出場。ならば、35キロ地点あたりまでは応援に来ているだろうと思っていた。連れ合いの調子もあまり良くないと聞いていたので、ここから残り7キロを並走するかな、などと思っていた。案の定、黄色いウィンドブレーカーの田中がいた。やはり知り合いの応援があると、気合いの入り方が違って嬉しい。元気も出る。今回出場の若手のホープ、長谷川は何処を突っ走っているのか、気になっていた。力量からすれば、十分3時間を切れるはず、そんな思いを田中は消し去った。『長谷川まで20秒』、田中から声が掛かった。なんと目の前を走っているという事だ。もうその差は100mも無い。追い付くのも時間の問題だった。今回の私は、引退を覚悟したレース。どうせなら、若い長谷川に負けたところで潔く引退という道筋を考えていた。過去から若手に道を譲って引退する話はいくらでもある。しかしそんな世代交代は、残念だが今回は無かった。

 しばらく行くと前方に黄色と黒のタイガースカラーの長谷川が辛そうに走っているのが見えた。どうやって追い越して行くか考えていた。いつもの鉄人の儀式か−−そんな元気は無い。黙って通過するか−−あまりにも薄情だ。選択肢はたくさんあった。長谷川も辛いだろうが私も辛い。やはり無難に声を掛けて抜き去る事にした。その時、まだ残りは5キロ以上もあった。

 残り4キロの手前に老人ホーム。やはり2周目は1周目とは大きく異なる走りになってしまった。応援してくれている老人達を見て、私の父、母を想い、手を挙げて応えざるを得なかった。自分も頑張ってゴールを目指さなければ申し訳ない。

 1周目に気持ち良く曲がった18.5キロ地点のカーブは2周目では、もう力強さは無かった。10キロのスペシャルに始まり、5キロ毎に甘いジェルを摂ってきた体には渋いお茶が欲しかった。最後の40キロのスペシャルエイドには、レッドブルとカーボショッツ。残りは2キロ、走りに元気も無く、40キロ地点で既に3時間を過ぎてしまっていては、もはや頑張る気力も無かった。とりあえずボトルを貰い、レッドブルを飲み干す。ボトルに付けたカーボショッツをどうしようか考えたが、取り外す気力は無かった。そのまま道路脇に投げ出すと、その重みで勢い良く飛んで行った。私もあれくらい元気に走りたかった。悪くても一昨年の記録の5分台、それもダメなら昨年のタイムの8分台。そして最後の望みは私の初マラソンの記録の9分台。そうやって少しずつ目標を下げていったが、それらは全てクリアできなかった。

 街中の残り2キロ、そして街外れのきれいになった道路の残り1キロ地点、ここまでも長かった。しかし、まだ1キロ以上残っていた。早く競技場が見えてくれ、ゴールに着きたい、そんな思いで走り続けた。最後くらいは気持ち良く走り抜けたい、そんな事を思って見たが、体は言う事を聞いてくれなかった。一般道路から競技場へ向かう道路へ左折。ラスト頑張れと応援してくれる人はたくさんいたが、それに応えられず、情けない。競技場のトラックへ入ってもそのままの走りしかできなかった。やっとフィニッシュラインを通過。横に置かれた時計は3時間12分台を示していた。私の時計を止める。3時間12分55秒、なんにも言えないタイムだった。

 脚がつってしまった訳ではないが、体は思うようには動いてくれなかった。満足のいかない走りしかできなかった自分が情けなく、しばらくそのまま競技場の中を歩き続けた。私のマラソンへの挑戦はこれで終わった。


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