2008-11-23 第21回大田原マラソン「乾燥記」 キヨ

 1981年5月、1ヶ月の新入社員研修を終えた私が配属された部署の事務所は、新宿駅西口交番前の地下道を西へ徒歩10分弱の所にありました。都庁はまだ移転される前でしたが、京王プラザホテルを始めとし、住友や安田などの高層オフィスビルが立ち並ぶようになった頃です。バブルが弾けるなど予想だにしない、というより、バブルと言う言葉すらなく、会社に向かう何百人ものビジネスマンの革靴の足音が朝早くから地下道に響き渡っていました。半村良という作家の小説に『軍靴の響き』というのがあり、日本の国が軍部に押さえられ戦争への道を歩き始めていく悲劇が描かれているものです。そして私が聞いた地下道の靴音は、経済成長は限りなく続くと思っていた人たちがビジネスと言う戦場へ向かう高らかな足音であったのです。その足音の響きが27年を経て甦ってきました。

 2008年11月23日、私にとっては4回目の大田原。2年続けて35キロ関門で打ち切られた後、昨年漸く完走。今年は箱根60キロも走り切れたことから3時間45分±10分くらいでは走れるのではないか、と多少余裕を持って臨みました。ペース配分としては、25キロから30キロまでキロ5分ペースを維持、その後の落ち込みはいつものこと、との組み立てです。天気は快晴、風力も1mと全く申し分ありません。ただ、湿度が40%と少し乾燥しているでしょうか。途中の水分補給には、十分に気をつけなければならないでしょう。

 10時40分、スタートの合図は聞こえませんでしたが、皆一斉に走り出したので、きっとレースが始まったのでしょう。今年は参加人数も増えたようで、スタート地点で後方にいると、最初の競技場トラック1周半は第8レーンを走らざるを得ません。それでもかなり感触のいい出だしです。むしろ良すぎて2,3キロ地点では少し速すぎると思い、ペースを落とします。すると後ろからかなりの大人数の足音が近づいて来ます。振り返ると3時間30分を目標とするペースメーカーに連れられた一団です。私の目論見では、この集団が見える程度でついて行くつもりでした。ところが後にいたとは、少し思惑違いですが、かといってこれ程の大人数を今さら先に行かせるとなると、リズムも狂いそうなので、やむなくペースを戻して集団の5m程前を走り続けることにします。

 最初の5キロは24分18秒。後のペースメーカーから「スタートのロスタイムを考えて早めに入りましたが、少し速すぎるので落とします。」との声が聞こえます。前を見ながら付いて行くというのは多々ありますが、後ろからの足音を頼りに一定の差を保って走るのは初めてです。なかなか、難しいものです。ランナーたちの3時間30分という目標に向かって走り続ける戦士のような靴音の響きには、27年前に地下道で聞いたような迫力があり、別にその人達と競っているわけでもないのにとても圧力を感じます。私は、5m間隔のセンターラインを4歩時々5歩で走れるとちょうどキロ5分なのですが、今は4歩で走り続けています。少し速いとは思いますが、集団が付いて来るので仕方がありません。

 10キロが48分18秒、5キロのスプリットが24分00秒。案の定ペースメーカーが「まだ早いのでもう少し落とします。」とうしろで言っています。こちらもかなり意識して落とすと、集団との差は変わらないのですが、5,6人づつの塊がいくつか追い越して行きます。きっと後半の落ち込みも考えて3時間30分を狙っている人達でしょう。つられて一緒に行きそうになりますが、まだまだ先は長いし、こちらの目標はもう少し低いので自重。足音達は付かず離れずの様子です。

 15キロは1時間13分11秒。5キロのスプリットは24分53秒。落ち着いて来ました。「いいですよ。この調子で行って下さい。」という後からの声。もしかして私に言っているのですか。まるでペースメーカーのペースメーカーをやっているような錯覚を受けます。まぁ、まだ楽に走れているので、付いて来てください。

 20キロは1時間38分22秒。5キロのスプリットは25分11秒かかりました。うしろの集団とは2,30メートル離れたので、もう少し速いかと思いましたが、意外です。中間点を過ぎ、再スタートと気持ちを入れ替えますが、脚は重くなり始め、再び集団の足音が大きくなって来ます。集団はキロ5分を刻んでいるはずですから、あと10キロ、できれば15キロはこのまま追い越されないようにと、少し不安が芽生え始めるもののペースを維持しようと、少し無理をします。

 ところが、25キロは2時間2分19秒、この5キロを23分57秒で走ってしまいました。5キロ単位でのスプリットでは一番速くなり、前の5キロより1分10秒余り上がってしまいました。てっきりキロ5分ペースを刻んでいると思ったのですが、集団のペースも上がっていたようです。その無理が祟り、1キロもしないうちに集団に追いつかれ、追い越され始めます。順調にここまでペースメーカーを引っ張って(?)来られたのですが、どうも限界のようです。とにかく30キロまでは集団が見える所で、とは思うのですが、少しずつ離れて行きます。たった1,2キロの間で、もう付いて行くどころか、まともに走ることもできなくなりました。先ほどまでの快調さが嘘のようで、DNFも考え始めます。この落差には我がことながら、ああ、情けないやら可笑しいやら。ただ、3キロ付近でトイレに立ち寄った洋子がまだ来ないのが気がかりです。膝を痛めていたので完走もどうかな、と思っていたのですが。それと隊長はどうしたのだろうか、などと自分のことを棚に上げて心配しています。やっと28キロ辺りで洋子が、29キロ辺りで隊長が追い越して行きます。満身創痍の隊長が懸命に走っている以上は、私も完走しない訳にはいきません。

 30キロ2時間37分丁度。5キロが34分41秒。今年は35.4キロ地点の関門制限を気にすることはないだろうと、安易に考えていたのですが、ここへ来て気にせずにはいられなくなりました。だた、関門時間がどうだったのか、思い出せん。スタート後3時間15分だったような気がしますが、今のペースですとギリギリどうかな、というところです。更に、関門をクリアできたとしてもその後がかなり辛いだろうな、という思いもり、いっそ、打ち切られた方が楽かな、との逃げの思いも出て来ます。ただ、隊長が走っているのに私が完走できないとなると、あとが怖いので、とにかく行くしかありません。

 ようやく、35キロ地点に辿り着いたの時は3時間15分50秒。この5キロに38分50秒もかかってしまい、距離表示の看板は残っていますが、係員は誰もおらず、チップ計測用のマットも敷かれていません。確か2年前に打ち切られたときは、ここで係員に止められた覚えがあるので、やはり、制限時間をオーバーしてしまったのでしょうか。気落ちしながらも走っていくと、係員が「もう少しで打ち切りですよ。」と言っているのが聞こえます。先には走っている人達の列が見えます。まだ、間に合いそうです。ダッシュをかけて最終関門35.4キロ地点を駆け抜けます。息があがりましたが、表示を見ると打ち切り時間はスタート後3時間20分。あと57秒、というとことでした。後はゴールを目指すだけです。ところが・・・・・。

 36キロ付近の給水所に辿り着き一息入れようと思いますが、テーブルの上にあるはずのコップやパックが一つたりとも、見当たりません。回りには投げ捨てられたコップや零れた水が残っているだけです。おそらく乾燥と参加者の増加で足りなくなったのでしょう。大田原のオフィシャルの給水には紙コップの他に、栄養補助食用のパックにも水が入れられています。道端の紙コップは倒れているので期待できませんが、パックなら水が残っているかも知れません。36キロで既にない、ということは、この先のスポンジも給水も残ってないと思われます。「どうする」。回りではパックを拾って飲んでいる人もいれば、拾ったパックにも水が残っておらず再び投げ捨てる人もいます。私は、拾うところまでは踏み切れません。辛いとはいえ、少しは余裕が残っているからでしょうか。極限まで喉が乾燥していたら、どうするでしょうか。厳しい選択になることと思います。拾った人に対しての特段の思いはありませんし、拾わずに済んだのにも強い意思がある訳でもありません。深く考えることでもないようにも思います。ただ、救われたのは、誰一人としてボランティアに文句を言う人を見かけなかった、ということです。まぁ、どうにかなるさ、との思いで走り続けていますと、沿道にある民家の庭先にランニング姿で10人ほどが列をなしているのが見えて来ました。近づいてみると、その庭にある水道管から水が出ており、皆水を飲んでいます。きっと、最初の誰かが沿道で応援していてくださったその家の人に頼んで飲ませてもらったのを、後の人が続いたのでしょう。60歳くらいの女性が飼い犬に向かって「みんな水がなくなって困ってるんだって。」と話しかけています。とても助かりました。お礼を言って再び走り始めると、今度はバナナや飴を用意してくださっている私設エイドステーションがあります。バナナ2切れと飴玉1個をいただき、「去年もここで、お世話になりました。」と言ったら、「来年も待ってるよ。」と返されました。あと5キロあまり、すこし元気が出て来ました。

 40キロは3時間56分25秒、5キロは40分35秒。DNFの選手を乗せた救護バスが通り過ぎて行きます。もう直ぐ道路規制が解除され歩道を行くことになります。それでも、とりあえず、走り続けていて良かった、と思います。隊長が走っていなければ、きっと止めていたことでしょう。

 ゴールは4時間14分10秒。天気も喉も乾燥した大田原が終わりました。前半が速すぎたとは思いません。次は、回りに惑わされず自分のペースを刻めるように練習をして臨みたいと思います。

 「水の上を走っていた」。「空を飛んでいた」。「トランジットバックを探していたら夜が明けた」。「試験に遅刻した」。「スタート時間に間に合わなかった」。ビールや焼酎を飲んですっかりできあがってしまった親父達が、自分が見たことのある夢の話をしています。夢といっても希望のある夢ではなく、寝ていた時に実際に見た夢だそうです。その親父達は、大田原マラソンに出るために横浜方面から来てレースが終わって温泉に入った後、宇都宮餃子を食べに来たそうです。トライアスロンとかいう過酷なスポーツをやっている人たちだそうです。とてつもなく支離滅裂な話をしています。無事、新幹線に乗って家に帰れるのでしょうか。他人事ながら心配です。


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