2008-6-22 たった一秒のために
−2008アイアンマン・ジャパン完走記−
kanreki


「自分の限界がどこにあるかなんて分らない。自分が限界と思ったところが限界?」

●まえがき
 去年と今年の記録の比較です。

		  スイム	  バイク	  ラン
2007	1:32:41	7:37:10	5:44:00
2008	1:26:48	7:37:09	5:28:37
バイクの記録は去年から今年へと一秒!も進歩したのです。この一秒のためにこの一年間バイクで6000km以上も走ったのです?

●レース前日
 土砂降りの雨が続いている。バイクで水溜りに突っ込めば落車間違いなし。憂鬱。10時頃になって小止みになったときを見計らって5、6km先の会場に向かってバイクで自走開始。走り出したとたんに土砂降りになったのはもちろんのことです。ビニールのカッパを着ています。人間はどうでもいいのですが、バイクが濡れるのは身が切られるようにつらい。オイルが流れてしまいます。バイクとヘルメットのチェックを受けてバイクとランバッグを預けました。バイクには100円ショップで買ったビニールカバーを掛けてあります。

 今回のツアーはビーンさんとwakaちゃんの3人です。昼食は「うま亭」でビーンさんは皿うどん(東京のかた焼きそば)、wakaちゃんはちゃんぽん、私は大盛りちゃんぽんでした。ビール2、3本。

 タクシーで宿に帰ってレースの準備です。レースで着るものと食べるものをまとめます。明日の天候状態を考えて悩んで決断します。結局、スイムから最後までバイクパンツで通すことにして、バイクとランはバイクジャージーで通すことに決めました。念のため、ランバッグにはランシャツとパンツは入れてあります。サプリメントは、ういろう、濡れおかき、パワージェル梅味、梅チューブ、バイクボトルにはアミノバイタルジェルを3本、他に秘密兵器として、「クランプストップ」(痙攣止め)「ロキソニン」(鎮痛剤)と「バンテリン」のような経皮消炎剤。

 18時からのカーボパーティに出かけます。プラスチックの容器を渡されて行列にならぶと順々に食べ物を入れてくれます。ビールはありません。

 同室のビーンさんは9時前に寝てしまいました。日頃の仕事が大変なのでしょう。レース前日とあってはビールを飲むわけにもいかないので、おとなしく本を読んでいました。村上春樹の短編集を持ってきています。

●レース当日
 3時半起床。4時から朝食。4時45分にバスでスイム会場に向かう。朝起きてすぐに雨が降っているかチェックしました。幸いにして止んでいました。ところが、会場に近づくと雨が降っていました。一週間も前から天気予報を100回も見て、レースは雨の中になると覚悟はついていました。でも、土砂降りにならないことだけを祈っています。両方の腕、太ももの横、ふくらはぎにマーキングをしてもらい、バイク置き場でタイヤに空気を入れたりボトルにスポーツドリンクを入れたりします。年齢順にレースナンバーが決められているので、まわりは年寄りばかりです。ふくらはぎには年代別のカテゴリーの記号、K(70−74才)J(65−69才)H(60−64才)などとマーキングされています。レースナンバーの何番から何番までが同じカテゴリーかは頭に入っているし、追い越し追い越されるときにふくらはぎを見て、同じカテゴリーかどうかをチェックします。勝負はシビアなのです?


 6時半、スイムのアップのため海に入ります。20.6℃は冷たい。しかし、頭が痛くなるほどではない。アップでは息をあげておきます。

 フローティングスタートなので、立ち泳ぎの時間が長くならないようにスタートまでの時間と距離を考えて砂浜からスタートラインに向かう。「プオー」と気の抜けたホーンの音で泳ぎ始める。想定範囲内のバトル。ここで頑張ってしまうと息があがってブイにつかまることになるので慎重に泳ぎます。ある程度落ち着いてきたところで、右側のコースロープが見える範囲内で泳ぐようにする。あれっ、腹がおかしい。冷えたからか、宿でも会場でもトイレにいったのに。小なら垂れ流しは普通だけど大ではそうもいきません。尻を締めて早くトイレに行きたい一心で泳いだので今回の記録はよかった?

 1.9km2周回なので一度浜にあがるのですが、平衡感覚が狂っているのでよろよろとエイドでスポドリをもらってまた海に入ります。まだ半分も残っていることを思うと喜び勇んでというわけにはいきません。もちろん、フォームのことは考えています。力の入れ具合も「ばてない」程度にあげます。スイムをあがると同じチームのさぶちゃん家族(長崎赴任中で応援に駆けつけてくれました)が大声で名前を呼んでくれます。うれしい。

 さて、180kmのバイクです。小雨が残っています。ウインドブレーカーを後ろのポケットに突っ込んでスタートです。去年の作戦は前半を出来るだけ「とばす」こと(もちろん、80kmあたりからつぶれました)だったのですが、今年は少し大人になって「出来るだけ」ではなく「出来る範囲内」でとばすことでした。80kmあたりでつぶれ始めたのは同じです。バイクの予定時間は7時間半です。いろいろ考える時間があります。トライアスロンを続けるためには、身体的条件と経済的条件が整っている必要があります。来年はどうなっているか分りません。駄目になっている確率が高いと思っています。ですから、今年はなんとしてでも完走したいのです。100kmも走ったのにまだ80kmも残っているかと思うとぞっとします。トップグループの選手がごーっと風切り音を残して追い抜いていきます。このコースの一部は2周回になっているので、60km離されたことになります。腰が痛い。濡れていた路面も乾いてきました。濡れた路面は恐いのです。昨年の男子チャンピオンは落車して松葉杖をつくようになっていたし、女子トップも落車して傷だらけのゴールだったそうです。


 バイクからランへのトランジション。時計を見るとほぼ予定通り。まだ6時間近く残っている。これで勝負は決まった。完走は出来る。バンザーイ、とは言うものの42.2kmは遠い。動かない足をだましながらゆっくり走り出す。なにがなんでも10kmは歩かないのが第一の鉄則。でも、きつい上りは歩いてしまう。めげそうになっている。8kmあたりで追い越していったおじさんが声を掛けてきた。このおじさんもつらかったのでしょう。ペースを私に合わせてきて、雑談をしながら4km。本当に助かった。もし、彼がいなければ歩いてしまったと思うくらいつらかったのです。途中で彼は千切れてしまいました。1km毎の標識が遠いのです。ハーフが2時間40分、倍にすれば5時間20分。私の標準ペースです。つらいことは意識の外にするようにして走り続けます。

 24.3km地点のスペシャルエイドでとなりに坐っていた49才の青年?が「先輩、これ食べますか」とおこわのおにぎりをくれました。涙が出るほど美味しかった。この彼とは、しばらく前から前後して走っていたのですが、このエイドから数キロ雑談をしながら走りました。この彼ともエイドで別れて先行しました。もう暗くなり始めました。暗くなるとひとつだけいいことがあります。道の斜度が目に見えなくなるのです。きつい坂は足で感じるのですが、ゆるやかな坂は気にしないで上ってしまえるのです。それでも、若い女性は目に見えます。ストーカーにならないように後ろを走ります。これで2km気を紛らすことが出来ました。後でリザルトを見ると45才でした。暗かったからなあ。ある程度の斜度を越える坂はすべて歩くことにしています。真っ暗な道、ところどころにレースのために用意された照明があるだけです。とにかく走るのです。武家屋敷通り、石田城、観客とハイタッチしながらゴール。完走できたあ〜。


●レース後
 三人そろってコンビニで夕食を買ってタクシーで宿にもどりました。お風呂のあと集まって飲み始めたのですが、ビーンさんは失神状態で寝てしまいました。wakaちゃんは疲れすぎてビールを飲めないまま部屋にもどってしまいました。自分でも意外なほどビールがおいしい。きっと、レース中怠けていたんだ?黄色と赤のゴム輪はバイクを2周回した証拠で、黄色のバンドはランの1周回目にもらえるのです。

 翌日は朝5時過ぎに目覚めてしまい缶ビール。バイクを引き取ったりしてからロールダウン会場に行きました。wakaちゃんが年代別一位でハワイのスロットを取りました。自分達も誇らしくなります。約束していたgeripさんと会って、近所の食堂で飲みました。それから、タクシーで鬼岳温泉に行って茶色のお湯につかりました。それから、アワードパーティでした。

 その翌日はバイクの発送などを終わってから観光に出かけました。堂崎天主堂です。殉教の歴史です。江戸時代はもちろんのこと明治の始めまで迫害され続けたのです。堂崎天主堂を出たところで、トライアスリートをひとり乗せている軽自動車に声を掛けられて、乗せてもらうことにしました。鬼岳などの観光に連れて行ってもらいました。見知らぬ人を歓待してくれる福江島のひとでした。

●あとがき
 年代別6/13位。同じカテゴリーの優勝した選手から2時間遅れです。完走した選手の中では73才の遠藤さんに次ぐ年寄りでした。ところが遠藤さんのほうが速かったのです。来年、再来年も戦うためにはスピードをあげる必要があることを痛感しました。いまさら、こんなことが出来るのかなあ?

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