大田原マラソン完走記〜僕が僕であるために ジョージ

大田原出場
 今回は2時間40分台への挑戦が目標であった。2時間40分台はサブスリーとは訳が違う。三種目練習をしながら2時間40分台を出すのはかなりハードルが高いことは分かっていた。それでも僕がこの目標を掲げるのに至ったのにはちょっとした理由があった。

 昨今のマラソンブームの裏では、エリートレースの市民レース化という悲しい現実が存在する。東京マラソンがその象徴である。かつて、『日本最高レベルのエリートランナー』しか走ることが許されなかった東京国際マラソンは、今や全く運動をしたことがない普通の友達も試しにエントリーしてみるというような『全国民』のためのマラソンとなった。

 走ることを一般層にまで広げたという意味において、東京マラソンの功績は偉大だと思う。エリートレースを行っても集まる人数は少ないが、今や一般層にまでアピールできる市民レースは定員オーバーで期日を待たずに締め切りを行うほどの人気で、エリートレース廃止の流れはどんどん加速する方向にあるのかもしれない。来年からは、北海道マラソンの時間規制が1時間緩くなるとかびわ湖毎日マラソンからスポンサーが撤退するとかいう話も出ている。実際問題、10年後にエリートレースとして残っている大会はどれだけあるのだろうか。マラソンの門戸を広く開放するということに関して、賛否両論(東京マラソンなど賛成の方が圧倒的に多い)だとは思うし、あんまり言うと非難を浴びるかもしれないが、敢えて言うと僕は完全に反対派だ。市民大会が増えることや大きな市民大会を開催するのはいいと思うが、エリートレースは特別なものであって欲しいと思う。競技者たるもの、高い目標があれば、それを目指して、そこに到達するように努力するのがあるべき姿であって、目標が降りてきたことに喜んではいけないと思う。だから、たとえ現状のタイムでは確実に無理な憧れの大会、びわこや福岡の規制が緩和されて出られることになっても嬉しくはない。(いや、出られたらちょっとは嬉しいか笑)

 今回、僕にとってクリティカルに効いたのが昨年出場した防府マラソンの制限時間の緩和であった。これまで3時間が制限時間となっていたため、サブスリーでは走れる(であろう)選手しか走れないということで、防府出場はある意味ランナーにとってのステータスであった。それがなんと今年から制限時間が一気に4時間に緩和されたのだ。そうなってくると、わざわざ飛行機に乗って山口県まで走りに行く意味が僕には見出せなくなった。そこで、4時間の大会なら関東圏にもあったので、大田原を選んだ。

再び別府大分へ
 僕は大学で6年間、陸上競技部に所属した。特に4年から研究室に入るので、普通はその時期に引退する人の方が多いが、僕は院に進んでからも一週間で最低6日は走って過ごした。6年もあれば色々な過ごし方ができたと思うし、成し遂げられたことはもっとあったかもしれないが、僕は今でもあの6年間を誇りに思っているし、色々な考え方や人生観が形作られた僕の人生の中でも大切な時期だったと思う。学生の時はトラック(5000、3000SCなど)がメインなので、シーズンにも影響が出るので、ずっとマラソンには出ていなかった。が、現役バリバリのときに一度は挑戦したいという思いから、最後のトラックレース(12月末)を終えてから、卒業までの短い期間ではあるがマラソン用に長い距離を練習して、研究室では修士論文で徹夜がどうとか言っている最中に(爆)、2月、学生時代唯一にして初めてのフルで、2時間50分で打ち切りの別府大分マラソンに挑戦した(出場資格はハーフで)。最後キロ5に失速したが、記録は2時間44分47秒で完走することができた。入学当初、初心者で陸上部に入部した僕は他の誰よりも遅かったが、6年間の集大成をフルで発揮することができ、素晴らしい充実感だった。今こうしてトライアスロンに情熱を注いでいることも大学時代の様々な経験があったからだと思う。陸上だけではなく、トライアスロンがメインになった今でも、自分はあくまでランナーだと思うし、心の中ではいつもエリートランナーでいたいと思っている。

 しかし、今年も出場しようと思っていた防府の市民レース化を受けて、自分のエリートランナーというアイデンティティが揺らいだ気がした。エリートランナーの証を大会の完走に求めるなら防府がだめなら次は別府大分だ。しかし、2時間40分台を出さないと出られない。三時間を切るには、他の練習をしながらだと僕の地力で、月間200-250km程度走っていれば出せる自信がある。しかし、40分台となってくると話が全く違う。正直なところ、あとのランナー人生、サブスリーは狙っても別大に出るタイムを狙うことはもうないと思っていた。しかし、なにかギリギリの緊張感の中で大きな目標を達成するような充実感が欲しかった。色々考えた末、結論を出した。出場することはもう二度とないと思っていた別府大分をもう一度目指そうと。大袈裟かもしれないが、この挑戦は、陸上に6年間 を捧げた自分のアイデンティティを確認するための戦いであった。

40分台を出す覚悟
 僕は目標を立てるからにはそれ相応の覚悟で練習にも臨む。社会人一年目で3時間11分、昨年出たフルは2時間56分、55分で40分台の走力は自分にはもうない。それでも、昨年はなかなか走れるようになった感覚があり、特に、それなりの練習量でもうまくペース配分をして、少なくともサブスリーは出せるうまさがついてきた。でも、40分台となると最後までキロ4イーブンでも2時間48分後半。配分もなにもけっこうなスピードが必要だ。とにかく練習がいる。昨年は夏場、走り込みができていなかったが、練習が必要だと思い、今年は夏場もよく走ったし、10月は社会人になってからの最高距離350kmを走った。箱根の60km走や、30km走、42kmビルドアップペース走。平均キロ3分55秒以下での20kmの単独ペース走も二回行って、本番までに決めた練習メニューはほぼ全てこなすことができた。目標を達成するためには、練習でどれくらいのスピードでどれくらい距離を走るメニューをどの時期に何回やれるかという設定さえしっかり決めて、それをこなしさえすればいいはずだ。最後の週は、スイムも控えて、セレッソでいつも以上にマッサージもたっぷりしてもらって、ほぼ万全の体勢で前日を迎えることができた。

最後の詰めの甘さ
 早朝の移動で疲れるのが嫌だったのだが、自転車にお金を使い過ぎてその日暮らしの僕は(爆)お金に余裕もなく、前日鈍行で行って、4500円の宿に泊まる作戦を取った。試合の週はいつも練習を激落としにして、前日だけいつも決まってそこそこなペースで1000m一本を走るようにしている。刺激を入れることで、次の日に体が動くのだ。最後の週はどうも仕事で遅くなる日が多く、練習的には落とす期間だったのでまあ問題なかったがやや睡眠不足であった。前日の土曜に予定では、朝に1000やって、昼移動、夕方には宿に着く予定だったが、ゆっくり寝ることを選んだ。朝に予定を済まさないとどんどん計画が後ろ倒しになるのが世の常で、1000をやりに多摩川のトラックについたのは14時半。予定通り3分06秒でビシッと走ったのはよかったが、走ってなんだかんだで帰ってきたのが16時。それから用意だ。勝負用のとっておきの『amino VITAL』ランパンランシャツで決めようと思っていたが、ランシャツが見当たらない。。。諦めてランパンだけにしてランシャツは違うのにした。用意を進めると、なんと、かなりありえないことに履くつもりでいたマラソンシューズが見当たらない。どうやら実家に置いてきたようだ。これはマズイ。しょうがないので、練習用マラシューにした。ランシャツはともかく靴は大いに反省すべきだ。しかし、それほど動揺しなかったのは年の功だろうか。学生の時ならもっとショックを受けたように思う。なんだかんだでようやく電車に乗れたのが19時。乗り継ぎがすこぶる悪く、宿に到着したのはまさかの23時過ぎだった。宿は24時間大浴場を使えるところだったのでそれはかなり助かった。しかしながら、ザっと書いただけで、これだけとは最後の詰めの甘さは否めない。大いに反省して今後に活かしたい。

スタート前〜快適快適
 朝、窓を開けたら快晴。大田原についてからかなり気温が低かったが、この天気なら温度が低くてもかなり走りやすい気候だと思い、『天は我に味方した』と感じた。

 横浜鉄人クラブの面々と会い、挨拶などを済ませてアップなどしていたら、スペシャルを預けるのを危うく忘れそうになるところだった。締め切り間際(既にしまいかけていた時に)、駆け込みで持参した『amino VITALゼリー』を20、30、35kmに預けた。ガムテープで番号を書いて目立たそうとしていたが、「札に書くから大丈夫です。」と回収された。その時は、トライアスロンでよくあるようにスペシャルの時に、ランナーが近づいたらマイクで番号の連絡を取って、着いたら手渡してくれるのかと思ってしまったが、実際はエイドにはそんなにボランティアの人はいなかったし、自分で立ち止まって小さいゼリーを探さなくてはならなかった。これは完全にボランティアに過剰に期待し過ぎだ。後で後悔するくらいなら預ける際に、多少強引でも相手を待たせても自分で納得するまで飾りをつけるべきであったと思う(本来は事前に用意すべきか)。

 制限時間が4時間のレースということで、トイレなど特別込み合うこともなく、アップもしやすく快適であった。タケ1さんから聞いていたように体育館二階のトイレは特に空いていて、スタートの15分前くらいに待たずに済ますことができた。5分前くらいまでアップして直前に流しもして、それでも陸連登録の部ということで二列目くらいに並べた。

ハーフまで〜天才現る!
 号砲が鳴り、こけないように注意しつつ、一斉にスタート。トラック一周のペースが90秒でロスタイム0秒の最高のスタートだった。これはいい大会だ!と思った。

 40分台を出すために25kmまで設定をall19’30”にしていた。距離表示は5km毎と書いてあったが、少し期待していたが本当に全く距離表示がなく、ペースが掴めないままこの辺かと思うところで、走っていた。そして、ようやく5kmの表示が出てきた。緊張の一瞬であった。時計を確認するとタイムはなんと19’31”!なんという正確なペースだ!と我ながら感心。次の10kmまでもなんとなくこの辺かと思いながら走ったら、次は19’27”!ここら辺で自分は天才じゃないかと疑い始める(笑)さらに進むと、10-20km区間はほんの少し上りでその分のタイムが上乗せされた形で、15kmで19’41”、20kmで19’40”とゆうタイムで、もはや自分はペース配分(正確には集団を選ぶ嗅覚)の天才だと疑惑が確信に変わっていた(笑)ハーフは1時間22分40秒くらいで通過。

ハーフから〜all or nothing!!
 ここまでペース自体は設定通りではあるものの、予定より余裕がないことは序盤から感じていた。これまでの経験からマラソンは30kmまでは、頑張ってはいけない競技だと思っている。いかに楽に、なんとなく走って距離を稼いで、頑張る距離は短くすることがポイントだと思う。余裕があるときは、初めに定まったペースから上げようとも下げようともせずとも自然に体が動くペースで走っていれば何も考えなくともどんどん距離が進むものだと思う。それがその日は、この集団から離されてはいけないとか、もう少し前に行こうとか、ずっとペースを意識して作っていたような感じだった。つまり、序盤から色々考え少し頑張っていた。ハーフを予定通りのタイムで通過する頃には、まだ余裕はあるものの後半が厳しい戦いになる予感はあった。しかし、ここで退くわけにはいかない。目標は40分台を出して別大マラソンの資格を得ることだ。50分以上では意味がない。たとえきつくてもやるしかない。そう自分に言い聞かせて、自分の信じた道を進むべし!と、これまでにやってきた練習を信じて、あくまでペースダウンせず設定通りに走ることを選んだ。ハーフ通過以降は、いよいよ苦しくなってきたが、こんなところで離されたらここで終わりと思ってついたら、19’02”と、無理して頑張っちゃったな展開(〜25km)。集団のペースが上がっていたようだ。余裕があればペース変化に気付いたかもしれないが、余裕がないときにこそ、ペースを見失いがちで逆に速くなるということも起こりえることだ。(キヨさんもここ早かったのでもしかしたらこの区間距離が若干短いのかもしれない。)

 これからの5kmは緩やかなペースダウンをし始める設定にしていた。待ちに待った公式ペースダウンのここで、余裕を取り戻したいと考えた。この区間は30秒ゆっくりの20’00”でいいので、そこそこきつかったのもあり、一旦気持ちを沈めて、そろりと集団から徐々に離れながら走る。しかし、いくらなんでも前の5kmから1分は落ちんだろと思っていたら、それ以上に落ちて20’13”(〜30km)。

 これでも30km通過の設定タイムが1時間57分30秒のところを1時間57分36秒で通過とゆう神懸かり的な感じ。しかし、ここからが非常に厳しい戦いに。

そして、jogへ…
 かなりきつくなってきたが、こんなこともあろうかと、30−35kmの区間はキロ4分オーバーで許されるように設定している。キロ3分台と4分以上とではかなり強度が変わる。ので、なんとか頑張れば…と思うも設定20’50”のところ22’34”。この二分半で目標は遥か彼方に遠のく。。。これキロ4分30秒じゃん!?いかんいかん!!と何度も再起を誓うも、もはや足は動かず、遂にキロ5分、完全ジョッグ状態に。この位置でキロ5で走ってる人はほとんどいないので、もはや集団が後ろから来ようが無抵抗のダダ抜かれ状態である。目標をだんだん下方修正し、せめて52分台、いや55分以内か、むしろ社会人ベスト(55分半)は死守とか思うも、少しでもペースアップしようものなら足がつりそうでなんにもできず、35kmからあと7kmもキロ5てどんだけよ!と思いながらも足が全く動かず24’50”(〜40km)。

 ラスト2.195kmでもラストスパートは全くできず、キロ5オーバーの(11’30”)で、2時間56分32秒でフィニッシュ。

挑戦の果てに
 今回は目標ありきの設定だったので、それに合う設定で初めから行きましたが、その設定がオーバーペースだった(それに合う走力がなかった)ということです。社会人ベスト狙いというだけならあと3分くらいは早く走れたかもしれませんが、でもそれだと別府大分は出られません…。要はもっと練習しないと別大は無理ということです。細かいところは色々あるんですが、設定自体にはそこまで無理があったとは思わないので、40分台の設定に耐えうる走力をつけるような練習を積めなかったことが今回の敗因だと思います。

 初めに練習メニューは『ほぼ』全てこなせたと書きましたが、11月初めにやった42kmペース走では前日の160kmバイクが効いたか効いてないかは分かりませんが、ラスト4分までタイムを上げる設定でしたが最後はバテテしまいペースアップできませんでした。それが走りきれるような感じだったら違う結果になっていたかもしれません。言い訳ですが、11月に入ってからも毎週末150km以上のバイクロングライドを行っていて、ヘタれた42kmペース走のリベンジ(もしくはそれ相応の練習)を試合までにできなかったことなど、本気で40分台を出すためには練習の立て方をもう一度見直す必要があるのかもしれません。

 でも今回のチャレンジ(夏場の走り込み〜ここまでの取り組み)で圧倒的に走力が付いたことは間違いありません。単にサブスリーや社会人ベストを狙うだけだったら、絶対こんなに練習はしなかったし、ここまで本気にならなかったと思います。幸いなことに、スイムもバイクも全く衰えていません(それが敗因という説も!?)。マレーシアまであと残り僅かです。ここで付けた走力を武器にスイムバイクは序章くらいのつもりで最後のランでぶち抜いていけるように頑張りたいと思います。

 そしてまた、いつか別府大分に挑戦できる日が来るまで『ランナー』としての気持ちを途切れさせないようにしたいと思います。


home back