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2006年6月23日の日記です。
「さて、手術が決まって落ち着いてしまいました。まな板のうえの鯉状態です。心配なのは、手術することではなく、術後のリハビリをいつから始め、本格的な練習をいつから始められるか、です。もうひとつ心配なことは、手術する部分は快癒するでしょうが、これからも他の部分が壊れることです。やはり、もう一度ハワイに行きたいのです。」
2005年5月のアイアンマン・ジャパン(IMJ)の年代別でハワイのスロットを偶然のようにして取れたのですが、その後、右足が故障して1〜2kmしか走れないようになりました。1分も歩いて休むと、また、1〜2km走れました。原因が分らないままマッサージとか鍼に通っていました。このような状態で10月のハワイに出場しました。16時間17分で完走はしたのですが、ランには6時間16分もかかっています。ハワイ後に病院に通い始めました。整形外科です。徐々に悪くなっていったのですが、脊柱管狭窄症との誤った診断がくだされていました。2006年5月になると数百メートル歩くごとに1分くらいの休憩を挟まないと歩き続けられなくなっていました。紆余曲折があって、血管外科に回されて、閉塞性動脈硬化症であることが判明したのはこの頃です。6月30日に手術をしました。
全身麻酔の手術ですから、なにも知りません。右足のつけ根の動脈を切り開いて、血管の中の堆積物をかきだして、血管に人工血管でパッチワークをしたそうです。12日間の入院でした。手術直後の一夜だけは痛かったのですが、今の病院は「痛い」といえばすぐ痛み止めをくれます。残った日々は悠々自適の生活を送っていました。本を読み、音楽を聴き、お見舞いのひとたちと雑談をしていればいいのです。食事は、すべてお粥でしたが気になりませんでした。酒もとくに飲みたいとも思いませんでした。
手術後3日もすれば病院の廊下を歩く許可が出て、ベッドの上で腕立て伏せをやっていて医者に「許可した覚えはない」と言われたりしながら、最後の2日は、歩いて近くの自宅に脱走してパソコンのチェックをしたりしていました。退院後のウォーキングから始めたリハビリは楽しいものでした。1時間のウォーキングから少しずつ時間を延ばしていって、1ヶ月後には5時間歩けるようになっていました。今でも、長時間のウォーキングが懐かしいのですが、つい、時間がもったいないとジョギングにしてしまいます。
その頃からスイムも始めました。キックは禁止なので、プルブイを使っていました。超スロージョグも始めました。エアロバイクも70Wくらいの低負荷で始めました。このようにして、順調に日頃の練習ペースに戻していきました。傷口が開くことだけが心配でした。医者も、傷口がはれたりしたら、すぐ病院に来るようにと言われ続けました。担当してくれた血管外科の部長に「トライアスロンを続けるために手術してください」と頼みました。先生にとっても看護婦さんたちにとっても異質の患者だったようです。
病後の初レースは、今年1月のフロストバイト・ハーフマラソンでした。キロ6分で走れました。3月の荒川マラソンではキロ6分半でフルマラソンを走れました。4月には高水山トレイルラン15kmの部にも出ました。こうなれば、今年のIMJに申し込むしかありませんでした。心の中では「リベンジ」のつもりでした。
さて、前段が長くなりました。レースの報告になります。
6月15日(金)
朝5時40分のバスで羽田に向かいました。ここから異次元の世界が始まります。まず、羽田でビールを飲み始めます。福江島に渡るには、長崎から飛行機、あるいは、ジェットホイールかフェリーです。福岡経由の便もあります。なにせ年金+アルバイト生活ですから、長崎までは、勤めていた頃の不労所得?マイレッジで飛び、長崎からは4時間もかかるフェリー、泊まったのは山の上にある2食付民宿です。
暗雲立ち込める長崎港 |
福江港とビール |
6月16日(土)
朝7時のバスでスイム会場に行き試泳をしました。波打ち際では分らなかったのですが、次から次へと押し寄せるうねりの高さに愕然としました。身体が波にゆられて、まともに泳げません。波の谷間に入ってしまえばブイが見えません。水温は21℃くらいとのこと、まあ、普通の冷たさです。完泳できてもタイムの大幅ダウンは避けられないと覚悟しました。波浪注意報がでているので、翌日のレースのスイムはキャンセルになるとのうれしい噂もありました。
スイム会場 |
強風です |
昼食は、同宿のご夫婦(ご主人が選手、奥様は今年の伊豆大島でトライアスロンにデビュー)と五島うどん定食を食べました。初めて会ったのですが、話していけば、共通の知人がいることが分ります。狭い世界です。
ひとりでは、街を歩き回るくらいしかすることがなく、トライアスロングッズを買ったりしてからは昼寝。18時からカーボパーティでした。
受付&EXPO会場 |
バイク検査&預託風景 |
6月17日(日)
朝3時半起床、3時45分おにぎりの朝食、身支度を整えてバスでスイム会場へ。風が止み、べたなぎの海を見て喜ばなかった選手はひとりもいません。沖に向かって真っ直ぐ900m、右に曲がって100m、そして帰りの900m、この2周回です。バトルに巻き込まれないように後ろのほうからスタートするのですが、進路を邪魔するひとたちはいくらでもいます。右往左往している選手もかなりいるのです。どのようにしてコースからはずれないかが大事なことです。秘密の「KNOW HOW」があります。落ち着いて下を眺めると、青く光る小さな魚がたくさん閃いています。
今日の食料 |
ナンバリング風景 |
バイクセッティング |
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女子トップ選手たち |
準備にあわただしい時 |
遥かに向こうに見えるブイがコースです |
IMJのスイムの記録です。
2003年 1:32:13
2005年 1:32:39
2007年 1:32:41
2003年と29秒、2005年とは2秒しか違いません。自分でも驚いてしまうほど進歩がない、あるいは退歩がないとも言えます。「悲しむべきか喜ぶべきか、それが問題です」が、もちろん、悲しいのです。
バイクは、かなり練習はしたのですが、ゆっくり長く走る練習だけでした。フラットなところがほとんどないコースです。くだりより登りのほうが多い?80kmを過ぎたあたりから足がなくなってきました。予定よりつらくなるのが早過ぎます。まだ、100kmも残っています。スイムが早かったわけでもないのに、バイクになってから次から次へと抜かれます。本当にびりになったかと思えるくらいです。それでも、120kmくらいになると、さすがに抜く選手は残っていないと見えて、ここからは抜くこともできるようになります。足が重くて回らなくなります。コースに50kmくらいのループを2周回するところがあるのですが、1周目と2周目では同じ坂でもつらさが全く違います。
バイクに積んだ食べ物は、かんころ餅(この地方のもので芋と餅でできたういろう風の食べ物)、梅肉チューブ、パワージェル・梅味、カーボショッツ・レモンライム味とコーラ味、バイクボトルにはカロリーメイト・アップル味を3ヶ、それから、宿で用意してくれた小さなおにぎりが2ヶでした。エイドでは、水かCCDを貰い、時々、バナナとかオレンジを貰っていました。バイクでの水分と食べ物の補給がうまくいくかどうかで、ランの結果が決まると言われています。とにかく、7時間半のバイク中、食べ続けます。
バイクの途中で外人と並走しながらの雑談です。130km地点のあたりで、すでに足が回らなくて四苦八苦していました。「どこから」「ワシントン」「IMJは始めて?」「そう、ぼくの奥さん、ずーっと前を走っているんだよね」「追いつかないと離婚されるよ」「違う、違う、これが夫婦生活をうまく維持する秘訣さ」「ふーん」もちろん、英語でした。
練習で150km以上は走っているのですが、途中でコンビニ休憩が何度も入ります。レースでは休めません。これが決定的な違いになって、普段はなんでもない腰、お尻あたりがどうしようもなく痛くなってきます。つらさの次元が変わってきます。
それでも走っていればバイクゴールが近づいてきます。バイクが終わった時点で9時間、遅くても9時間10分が目標でした。制限時間が15時間ですから、逆算して、ランに6時間くらいの余裕は欲しかったのです。結果は9時間9分。まあ、予定通りです。
バイクの記録
2003年 7:28:37
2005年 8:03:42
2007年 7:37:10
いよいよ最後のランです。バイクから降りられただけでうれしいのです。キロ7分で走り出しました。さほど、つらくありません、といっても、すでに9時間以上動き続けているのですから、おおいに疲れています。最初の10kmを走り続けることが、第一目標です。暑い。1.5km毎にあるエイドで頭に水を掛けてもらい、氷をキャップの中にいれてかぶります。冷たくて頭がキーンとします。第二目標はハーフまで歩かないことです。
アップダウンの多い2周回のコースです。筋トレのおかげか、ある程度の斜度までなら走れるようになっています。それでも、2、3ヶ所の急坂は歩いてしまいます。
1周回22km地点で、秘密の補給をしました。ドリンク剤、クランプストップを舌の裏側にひと吹き、足にはバンテリンを塗りました。これで、30km地点くらいまでは自分をごまかして走ることができるはずです。
ランの30km地点でゴール制限時間まで90分しか残っていません。12kmを90分。キロ何分で走ればいいのかと必死で計算しました。少なくとも、歩いたら間に合わないことは分りました。ここから、地獄が始まります。時刻は夜8時半頃です。「空の星がきれいです」と書こうと思って空を見たのですが、驚くほどの数の星が見えるわけではありません。2005年のIMJでも同じような状況でしたから、驚きはしないのですが、つらいことには違いはありません。38km地点で65歳の選手、しばらく走っていると70歳の選手にも抜かれました。ついていこうとするのですが、足は動きません。
ゴールが近くなってきて、制限時間が心配で応援のひとたちに「あと何分残っている?」と繰り返し聞きながら走りました。きっと、走っているようには見えなかったのでしょうが、みんな「「まだ間に合う、頑張れ」と応援してくれます。有名なネオンサインが見え、福江城の山門をくぐり、輝くばかりに明るく照明された花道で、たくさんのひとたちがアーチを作って迎えてくれています。ゴール。
ランの記録
2003年 5:08:40
2005年 5:20:15
2007年 5:44:00
1周目あたりまではキロ7分からさほど遅れていなかったので、5時間を切れないまでも5時間10分くらいでは走れるつもりでしたが・・・。
ゴールの時の気持ちはどうだったのだろうか、と思い出そうとするのですが、ありきたりの感想しか思い浮かびません。きっと「これで終わった」と思ったはずです。雑誌かなにかの記事であれば「不死鳥のように蘇って完走」などと書けるでしょう。しかし、目標タイムは14時間半だったのです。
総合記録
2003年 14:09:30
2005年 14:56:37
2007年 14:53:51
民宿からの夕日