トライアスロン21年目を迎えて 「第1話」 キヨ
鉄人20周年のバイクジャージが出来上がり、心機一転(身体は旧態依然)、シーズンを迎えられます。そこで、今までのトライアスロンに関する思い出など、書いてみました(勝手に連載します?)。

第1話 寝台特急「出雲」への思い(1985年〜87年)
 皆さん、ご存知ですか? 今年3月、東京と山陰地方を結ぶ寝台特急「出雲」が廃止になったことを。とても残念です。と、書き始めますと、なんで、トライアスロンと、ブルートレインが関係するのか、と訝られますでしょうか。それは、私自身が鉄道マニアということもありますが、なんと言っても「出雲」にはトライアスロンとの切っても切れぬ思いがあるからです。

(1)アウターは使わない
 81年、日本で初めてのトライアスロンが皆生で開かれると言うのは、事前に知っていました。でも、スポーツ歴と言っても、陸上部で400メートル専門に走っていたくらいで、フルマラソンは想像外、ましてやトライアスロンなどやろうと言う人の気が知れませんでした。しかも、当時、社会人になったばかりで運動からも遠ざかっており、将来、自分が興味を持つことになろうとは、思いも寄りませんでした。 ところが、85年4月、サラリーマン生活にも少し慣れてきた頃、宮古島大会がテレビで放映されたのを見て、身体がウズウズし始めてきました。とは言うものの、ランニングも10キロ迄しか経験がなく、プールでは25メートルまでしか泳げず(その昔、陸上や野球の選手は、身体を冷やすし、余分な筋肉が付くといる理由で泳ぐことはタブーとされていました。ただ、瀬戸内海で育ったので素潜りは出来、海への恐怖心はありませんでした。)、ロードレーサに至っては触ったこともなく、取っ掛かりをどこに求めれば良いのかすらも分からない状態でした。そんな時に訪ねたのが当時、横浜そごうにあったバイクショップでした。10月頃だったと思います。ただ、どのような経緯でそのショップを選んだのか覚えておりません。ランニングシューズとスクール水着は持っていましたから、後は取り敢えず、バイクを買わなければ、との思いでした。ただ、買っては見たものの、ペダルに固定するバイクシューズも、ドロップハンドルも初体験。そこから先が見えない状態でした。ところが、それから直ぐ、バイクショップから連絡がありました。「ショップでバイクを買った人が中心になってトライアスロンクラブを作りますよ」。これで、やっと鉄人への道が開けたような気がしました。
 85年12月、初めての会合(横浜駅東口階段を下りた右にあった喫茶店)に参加しました。集まったのは6人でしたでしょうか、その中でトライアスロン経験者は一人だけだったと思います。私自身も、どのような練習をすればいいのか、全く分からない状況で、その時、持っていた手帳には「バイク練習で、初心者はフロントギアのアウターは使わない」と書き残しています。そしてクラブの名前を「横浜鉄人クラブPier21」にするとも。偶然とは言え、素晴らしい人達の出会いでした。その時の皆の共通の思いは、なんとかレースに出たい、ということだったと思います。私の目標としては、やはり草分けの「皆生」でした。

(2)鉄路は皆生へ
 大会エントリーするに当たり、一応、私なりにはステップを考えており、ランニング大会で、85年11月に湘南マラソンで10キロ(52’56”)、86年1月に、川崎新春マラソンで30キロ(2°55’)、館山若潮マラソンでフル(4°35’)と徐々に距離を伸ばして完走(歩)。今にしてみれば、随分なタイム。初の30キロとフルはしょうがないにしても、10キロは高校生の時でも36分だったので、そのつもりで前半走っていたら、折り返してから、どう見ても母親と同年齢にしか見えない女性にボロボロ抜かれてかなりショックでした。スイム、バイクは鉄人の方たちと、保土ヶ谷の温水プールや港北ニュータウン(今ほど開けていない)で、トレーニングに励みました。3月には、鉄人クラブのユニホームも出来、三浦マラソン(ハーフ:タイム?)でお披露目し、さらに同月、千葉県柏市で行われたミニレース(距離とタイムは忘れまた。今のメンバーでは確かJRさんとツカさんも出られましたね)で、一応トライアスロンデビュー!。自分なりには着々と皆生への道を歩んでいるつもりでした。ところが、その年の参加許可は貰えず、いったい何時になったら、どうしたら本格的なレースに出られるのか、暗澹たる気持ちでした。たまたま、同年7月に始った、実家近くの愛媛県中島の大会(S1.5k B58k R13k)には出場できましたが、やはりロングへ出なければ、でも一体いつになったら出られるのか、の気持ちは強くありました。
 この思いは皆同じで、当時、大会申し込み時の実績作りのクラブ行事として三浦で「大練習会」やスイム練習をしました。今も続く西湖のデュアスロン(第1回は、バイク130キロ、ラン20キロ)その一環でした。
 そんな時、「トライアスロン・ジャパン」誌で、参加したい大会に関する投稿が募集されました。私は早速、「皆生に出たい」という思いを綴り、ついでと言っては失礼ながら、JRさんも皆生に憧れ、毎晩横浜駅から「出雲」を寂しく見送っていることも書き添えました。それが幸運にも掲載され、参加申し込みの時に雑誌と一緒に送りました。あの頃は、参加許可をもらえるかどうかに当たり、競技実績の他に、如何に参加への熱望度があるのかという「嘆願書」の出来がカギを握っている、と囁かれていましたから。
 その成果かどうか、参加許可を得られ、87年7月、皆生へと向かえることになりました。交通手段は、勿論、寝台特急「出雲」。JRさんと私、それに当時会員のAさんご夫妻の計4名が勇躍、横浜駅から乗り込みました。全員、初めてのロングへの挑戦と、2年越しの念願叶った思いで、気分は高揚、消灯時間が過ぎてもなお話し込み、車掌さんに注意される始末でした。私にとっては、「出雲」があったから皆生に出られた、皆生に出られたからトライアスロンが続けられた、と思ってます。

(3)スイムラン多岐
 「出雲」に纏わる大会として、他に、島根県で86年から続いている「スイムラン多岐大会」というのがあります。S2.4キロ、森林浴気分のR21キロの一寸ハードなアクアスロン(ショートタイプはS1.2キロ R10キロ)です。恐らく「スイムラン」と言う名称を初めて使った大会ではないでしょうか。前にも書きましたように、その年の皆生に参加できず、悔し紛れに同じ山陰地方で開かれる大会に「出雲」の乗って行きました。前夜祭で出雲神楽が披露されたり、地元の方々が楽しく歓迎してくださる大会です。8月の第1週に開かれます。関東から行くには少し遠く、鉄人クラブの方にはバイクがなく物足りないかも知れませんが、20年も続いているには、それなりの訳があると思います。因みにショートの参加資格は99歳迄(ロングは69歳迄)なので、いずれ「横浜鉄人マスターズ」で参加してみます?

そんな、「出雲」が廃止されました(サンライズ出雲というのは残るそうですが、岡山経由でしかもブルーではないので、こちらに対する思い入れは全くありません)。繁忙期に臨時ででも運行されるかどうか分かりませんが、せめてもう一度乗っておきたかった気がしますね、JRさん!


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