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*まえがき
1998年の小豆島オリーブトライアスロンに出てからすでに17年、いつも制限時間ぎりぎりを走ってきました。
*出発まで
福江島への出発2,3日前に銀行に行ってへそくりをすべて引き出しました。ハワイのエントリーフィー450ドル相当の円と旅費です、といっても旅費の大部分はアルコール代?です。万一ハワイに行けることになったら旅費を借金しなくてはなりません。
レース中に使うサプリ代でちょっとしたレストランのディナーが食べられます。ういろう、パワーバー、アミノバイタルジェル、チューブ入り梅肉、CCD、アミノバイタル粉末、ドリンク剤、それから秘密兵器のバイアグラじゃないバンテリン、〆て何千円!もかかります。
*5月20日(金)
朝5時40分吉祥寺発のバスで羽田に向かう。空港で横浜鉄人クラブの対馬さん、VO2maxの落合さんと山本さんと合流、これから四人旅が始まります。まず、落合さんがカレーを食べている前で生ビールを一杯。飛行中はおとなしく睡眠、長崎空港から大波止のフェリー船着場へ。荷物を置いてぶらぶらと中華街へ行きました。途中、出島跡を観光、こんな小さな場所が日本から外国への唯一の窓口だったなんて不思議なくらいです。
福江港まで4時間のフェリーの旅、甲板でちょっと冷たい潮風に吹かれながらビールを飲み、本を読み、居眠りをしていれば長く感じる暇はありません。二年ぶり三回目の福江港でした。落合さんは穂村弘、私は村上春樹、対馬さんは?を読んでいます。日頃の練習で脳みそが筋肉化しているので、それへの対抗手段です。
今回は最も安そうで宿泊が福江市内の五島第一ホテルと決まっているホスピタリティツアーを選びました。これまでの二回はゆったりとしてレースに集中できる?近畿ツーリストのカンパーナホテルだったのですが、比べると部屋は足の踏み場もない狭いビジネスホテルの二人部屋。普通のベッドにアディショナルベッドです。身分相応と納得の選択でした。
夕方5時頃に文化会館で登録を済ませました。もちろん、JTUの会費未納はチェックされていて4千円を払いました。それから、どこかで夕食だったのですが、どこだったか簡単には思い出せないので、どこかで食べたということにしておきます。それから、もちろん酒屋でアルコールとつまみを買い求めて部屋で宴会だったのは言うまでもありません。
*5月21日(土)
土曜日の朝は近くの「ほか弁」で朝食を買ってきました。9時からの説明会に出席。エキスポではなにを買うかを考えるだけでまだ買いません。対馬さんは7月に開かれる横浜鉄人クラブの西湖デュアスロン大会用に賞品を一万円分くらい買いました。
ホテルでバイクを組み立てることにしました。普通なら汗びっしょりになるのですが、ここは寒いくらいです。もっとも、対馬さんはサイコンの台座を忘れて接着テープで固定するので冷汗をかいていました。バイク輸送には、TJ発売の大きめのダンボールを使いました。後輪は組んだままなので、前輪、ハンドル、サドルを組むだけです。簡単ですけど、送料が高くなります。
午後になって、バイクそのものとバイクとランのトラバッグ預託にためにスイム会場の富江にバイクで自走します。背中のトラバッグと試泳のためにウエットスーツが邪魔です。20kmくらいですがアップダウンがあって脚にきます。浜辺から恐る恐る冷たーい海に入りました。ウエットスーツを持ってこなかった対馬、山本さんはちょっと泳いで浜にあがってしまいました。
今回のレースのためにシロモトのフルウェットスーツを買いました。古いロングジョンしか持っていなかったし、わずかでもスイムでタイムを稼ぎたかったのです。ところで、試泳で一番喜んだのは落合さんでした。水温が低くて泳げなかったら出場取りやめといっていたのですが、意外に暖かく感じたようです。でも、レース時のスイムは?
そういえば、車検のときにおせっかいなことをしてしまいました。女性のオフィシャルが外人選手に「ナンバープレートのつけ方が規則どおりでない」と指摘して縦向きについているものを横向きにするように指示したのですが、その選手は「そうすると風でぱたぱたする」とか、「ぼくはこうしたいんだ」とか、最後には「ハワイでは問題にされなかった」などと延々とクレームをつけていました。通訳の女性も間に入って困っていました。見かねて「Official is official. Here is not Hawaii but Japan.」と言って立ち去ったのですが、その後はどうなったかは知りません。しかし、この選手はオーストリアの選手でアマチュアの部で男子総合優勝しました。
*5月22日(日)
さあ、レース当日です。朝3時過ぎに起きてホテルが用意してくれた幕の内弁当をもそもそと食べます。擦れ対策としてディクトンを首回り、脇の下、大腿、サドルが当たる尻に塗りたくって、乳首にはシャラポアのつけ乳首ならぬバンドエイドを貼ります。結構、快感!なんてことはありません。ついでに、ディクトンの日焼け止めも塗りたくりました。
バスで富江のスタート地点に移動。寒い。トレーナーを着ました。両手両足にナンバー、ふくらはぎにカテゴリーのローマ字を書き込んで貰って登録は終了。あとは、バイクのセッティングとバイク用トラバックの中身の調整です。ここで遅い選手=寒いとの自覚があるのでトラバッグにウインドブレーカーを足しました。これが、運命の分かれ目のひとつでした。
太田さんがエントリーしたにもかかわらず直前にバイクで落車して出場取り止めになり涙をぽろぽろ流しています。女の涙って・・・。
カテゴリーJ(65−69歳)は4名だけです。ナンバー35、昨年のジャパン年代別1位でハワイに行った浜島さん、ナンバー130の小島さん、レース後に聞いたのですが、韓国で3回、昨年はマレーシヤでハワイのスロットを続けて4回取っている強豪です。ナンバー131の依田さんは記録的には大差なさそうです。
バイクセッティングの時に、初めて小島さんと会い挨拶をしたのですが、どこにでもいそうな普通のおじさんでした。もっと戦闘的な選手かと思っていたので拍子抜けしてしまいました。実力差があり過ぎ勝つことは無理とあきらめながら、なんとか?ならないかと燃やしていた闘志も消えました。
ウエットスーツを着てアップに入ります。冷たくて一気に海に入ることはできません。足のつま先からちょっとづつ入っていきます。腰くらいまではウエットのなかに水は入ってこないので耐えられるのですが、一旦、水がウエットのなかに入ってきたらパニック状態です。仕方なく泳ぎ始めます。寒い、でも、毎年こんなものだと自分に言い聞かせます。ペースをあげて息をあげたりもします。一回息をあげておかないとレーススタート後にひどい目に会うことは経験済みです。浜にあがってスタートまで待っている間が一番つらかった。身体が震えて止まりません。武者震いではなく単純に寒いだけです。ウエットスーツなしの女性がひとりいます。一体どんな身体構造になっているのだろう。
フローティングスタートなので2,3分前にスタートラインに向かい立ち泳ぎで待つ。気の抜けたホーンの合図でスタート。ゆっくりと大きめなストロークで泳ぎだす。速いひとたちはピッチを上げて速いパックに入ろうとするのだろうが、こちらは、バトルに巻き込まれないように、息があがらないことを目的にしているのだから泳ぎ方だって変わります。藻が茂っている間には小魚がたくさん泳いでいます。冷たさにも慣れてきます。基本的にはコースロープが見えるところを泳ぐようにしているので、2,3人に前を塞がれてもあわてて抜きにかかりません。コースが空くのを待つのです。沖に向かって約800メートル、右に曲がって300メートル、岸に向かって泳いで、浜にあがって時計を見ると40数分と予定通り。波、うねり、潮の流れなどで身体が揺られるのですが、まあ、平穏無事にゴール。なんと、雨が海面を叩いている!
トラバッグを取って更衣テントでツーピースのウエットをさっと脱いで、バイクジャージーに着替える。躊躇することなくウインドブレーカーを着てスタート。雨粒がサングラスについて視界が狭い。180kmの始まりだ。雨の中のバイクは佐渡で一回、この時はランの38km地点で制限時間を越えて収容車に乗った、他には東京−糸魚川294kmのうちの半分以上降っていたことがある、この時は2回パンクした。寒いのを除けば、どうということはないと言うものの、スピードはあがらない。DHポジションのほうが寒くない。いろいろな坂がある。どの坂も嫌いだ。70km地点を越えて落合さんが追いついてきた。100kmあたりで対馬さんが追い抜いていった。なんとか平均時速25kmを維持出来ている。
レース中になにを考えているのかとの質問を受ける。なにしろ15時間もひとりなのだから考える時間は余るくらいある。もちろん、つらい、やめたい、がんばろうとか、ゴールは何時になるとか、完走記にどう書こうとか、レースに直接関係のあることを考えていることが多いのだけれど、友達(恋人?)と仮想の会話をしたり、嫌な仕事のことを思い出したり、帰ったらどこのラーメンを食べに行こうとか、実にいろいろなことに考えは飛んでいきます。レース以外のことを考えているときは精神的に楽になるのですが、スピードは落ちるし、注意力散漫になるので危険?です。
120kmを越えて、周回コースの2周目に入ると脚が残っていないことに気づかされました。ギアを一枚軽くしなければ坂を登れなくなりました。脚を止めないようにするだけで精一杯です。速く走ろうなんて思うことすらありません。バイクゴール手前の最後の上り坂になるとランに入った選手たちをすれ違います。なんとかゴールにたどり着きました。予定より30分近く遅い。こんなはずではなかった!
カテゴリーJについては、小島さんをバイクで抜いている、浜島さんにはバイクで抜かれている、依田さんには会っていない状況でした。
ラン用ウエアを用意してあったのですが、着替える時間が一秒でももったいないのでバイクウエアのまま走ることに急遽変更、靴だけを替えて走り出しました。残り時間5時間24分! 完走できるかできないかのぎりぎりな時間です。ここから、残り時間との戦いが始まりました。
バイクで消耗しきった脚にランはつらい。最初の10kmはなんとしてでも走りぬかなければ先につながらないとよろよろと走る。キロ7分! 1kmごとの標識がうらめしいくらい遠い。エイドも2,3ヶ所に一回は止まらないことにして、よろよろ走る。15km地点をキロ7分ペースで通過。これから、だらだら上りが続く。たまらず歩く。再び走り出すときのつらさ! 20数キロ地点からのいくつかの下りが調子を取り戻させてくれる。次から次へと2周目の選手に周回遅れにされている。滝川さんが自動車で逆走していて「まだ元気じゃん」と言うのだけれど、こちらが1周目なことに気づいているのか心配になる。
ようやく、武家屋敷通りに入って1周目のあかしのゴム輪を貰う。ここで、どっかりと坐って、ドリンク剤を飲んで(ドーピング?)、バンテリンを脚に塗りたくる。残すところ20km足らずだが、これからがつらくて長い時間の始まりです。時計を見ればキロ8分で残った距離をカバーしないと完走できなくなっている。ほとんど歩いている暇はない。2002年のジャパンでは、この地点で完走は無理とあきらめ、ここから見知らぬ3人で歩き始め29km地点で収容車に乗りました。2003年は、30分くらいの余裕を持って走っていたとぼやいても今年は今年です。だんだん暗くなってきます。まわりに選手の影も少なくなってきます。時計を見ながら細かな計算をします。ここで歩いたらどうなるかと。数分の余裕は残してゴールしたいのです。ゴール前でダッシュして死んだら大変です。もう、真っ暗です。歩きたいけれど歩いたらすべてを失います。
こんな時です。これからはロングの大会には絶対出ないぞと心に誓い、例えハワイだって出ないぞと思うのは。
40km地点を越えたのですが、分単位で制限時間と駆け引きをやっている状態は変わっていません。大型スクーターに乗ったマーシャルが「このままでいけば間に合う」と言ってくれるのですが、このままを維持することが苦しいのです。ついに、「神さま〜」と言ってしまいそうです。あの有名な「IRONMAN JAPAN」のネオンサインが見え始めました。
周りにいた4,5人の選手がスピードアップします。取り残されてしまいした。マーシャルは、制限時間内完走の最終走者と思ったのでしょうか、ずーっと伴走してくれています。ネオンサインの手前で応援の若いおばさん?が見るに見かねてか横にならんで走り出しました。「がんばるんだよ」「ハイ」。さあ、アベックランだよ!といっても、どたどた、よたよた、よろよろ、道を歩いている選手に「あと何分残ってる?」と聞くと、「3分、いや、4分」、これでは、ゴールまで歩くことはできません。お堀端から城へ入りました。薄暗い中をひとりで走ります。そして、照明で明るく照らし出された花道が待っていました。手を上に挙げて振ります。ひな壇の観客が応えてくれます。また、腕を振ります。「わーっ」と歓声が聞こえます。対馬、落合、山本さんたちとハイタッチ、あとで落合さんは涙が出そうだったといってくれました。ゴール。心配をお掛けしました。
みんなが暖かく迎えてくれます。例え、びりから三番目だってがんばったのだとの実感はあります。すぐに貰った五島うどんが疲れている割にはのどを通ります。もしかして、もっとがんばれたのかも知れない? 待っていてくれたみんなは寒かったはずです。宿に戻って、「ほか弁」とビールで完走祝いです。鎮痛剤を飲んで寝ました。
*5月23日(月)
早朝3時半に対馬さんの腕時計の目覚ましが鳴ります。ご当人はいびきをかいたままです。しばらくして、もう一度鳴ります。あきらめて、ロビーの自販機でビールを買ってきて飲み始めました。至福の刻です。
9時になってリザルト発表を見に文化会館に行きました。カテゴリーJのトップかも知れないと思ってはいるものの、レース中トイレに行っている間とか、エイドにいる間に抜かれている可能性は充分にあります。ドキドキ。完走証をもらいました。カテゴリー一位!世の中が変わりました。こんなに遅い選手が一位なんて話がうますぎる、後で間違いですなんて言われないか不安で係員に確かめようとしたくらいです。
それから、コンカナ王国の鬼岳温泉に行ったり、バイクを箱詰めしたりして表彰式会場にタクシーで向かいました。
司会のウイットががんがん盛り上げようとしています。大音量でロックが鳴り響きます。登場したレースディレクターの山本光弘さんが踊りだすのを、誰もが待っていました。ところが、腕を身体に巻きつけるようにして「今年は踊りません」と言いました。昨年からの流れがあるようですが、これで雰囲気は一気にダウン。
各エイジ5名までが楯を貰えます。カテゴリーJの完走者はひとりだけです。舞台がさびしいので踊ることにしました。少しは喜んでもらえたと思います。観客の手拍子に乗って70歳の遠藤さんも踊りました。席にもどると外人が2,3人握手をしに来てくれました。昔の自分からは考えられないパフォーマンスです。対人赤面症気味で人前にでることを苦手にしていました。でも、「年寄りは自分から発信しなければならない」ことを身にしみて感じています。
*あとがき
いろいろな神がいるのでしょうが、今回はトライアスロンの神が微笑んでくれました。きっと、可哀相に思ってくれたのでしょう。
*付表
総合タイム 年代別順位 スイム バイク ラン 2002 DNF − 1:41:03 8:15:01 29km地点 2003 14:09:30 I 8位 1:32:13 7:28:37 5:08:40 2005 14:56:37 J 1位 1:32:39 8:03:42 5:20:15