2005年10月15日 たった一度の旅
− アイアンマン・ハワイ完走記 −
還暦

どこから書き始めようか迷っています。初めから順序良く、あるいは、最もハイライトなところからにしようかと。

レースの翌日のアワードパーティで「このハワイの大会に初めて参加したVIRGINの選手は立ってください」と言われました。えっ、Mr. VIRGIN? 喜んで立ち上がりました。三分の一の選手が立ったかなあ。そして、「WELCOME TO IRONMAN FAMILY!」とみんなの盛大な拍手で迎えられました。アイアンマン・ファミリーの末席に名を連ねることができたのです。一度だけのファミリーメンバーとして。

今回もいろいろな出会いがありました。成田からホノルルへ、そして、コナへ飛びました。ホノルル空港で待っているときに松田さんに声をかけられました。日本のアイアンマン最高齢の女性、といっても60歳になっていません。アイアンマン・ジャパンで相前後してゴールしハワイのスロットを取っています。レースでは、ランですれ違ったときに立ち止まってしばらく雑談をしていたのですが、バイクで眠って?落車したとひじに包帯をして走っていました。他にも印象的な出会いがありました。帰りのコナ空港のチェックイン時に出会った馬橋さんです。長蛇の列の最後尾で一緒になってから、ホノルル空港で別れるまで延々と話し続けました、といってもほとんどは彼女が話していた? きっかけは、内緒ですが、彼女のお腹の具合がよくなくてトイレに駆け込んでいるあいだ、荷物番をしてあげたことでした。ここ数年ハワイにボランティアとして来ているトライアスリートでバイリンガルの女性です。私がゴールするのを塚越さんと見ていたのは偶然でしょうが、彼女から聞いたボランティアたちの話は、知らなかった世界を教えてくれました。毎年、この大会のボランティアをすることを楽しみにして世界から集まるひとがたくさんいること、そして、大会の二日後の夜にはボランティアたちのパーティがあって、もちろん地元のひとが多いのですが、優勝した選手たちも来て大いに盛り上がるそうです。抽選があって地元のレストランの食事券が賞品だったりするそうです。地元のひとが当たって大騒ぎ!

たくさんの出会いがありました。選手もボランティアも応援のひとたちも、みんなみんなアイアンマン・ファミリーのメンバーなのです。ファミリーの一員になれたことが喜びになるように大会が組織されているのです。

10月12日夕方の成田エキスプレスでビールを飲んで、空港では、京樽のばってらとビール。飛行機の中では、どうでもいい食事とビールとワイン、うたた寝をしているうちに同じ12日の朝ホノルル空港に着きました。空港内の中華食堂でチャーハンとおかず一品、「コーラ」ではない「コーク」を注文しました。注文したおかず一品がなんだったかを思い出せなくて悩んでいます。ボケ老人にならないようにする方法のひとつは、昨日食べたものを思い出すことだそうです、ということで、ハワイ・ツアーにおける食生活の報告です。

10月12日 昼食
NYステーキ・プラター。ステーキが小さくてアメリカらしくない、焼け焦げているのはアメリカらしい、たくさんのフライドポテトとサラダがついているのはアメリカン・スタンダード? お腹は一杯になりました。塚越、本吉さんはハンバーガー・プラターを食べていました。おいしそうに見えたけど、きっと、日本のマックのほうがおいしい?

10月12日 夕食
塚越さんとふたりで近所の薄暗いレストランでバイキング。安くて、なんでもあって、あまり美味しくないというお決まりのものでした。塚越さんが、ケーキをふたつみっつとむしゃむしゃ食べていました。きっと、練習量の多いひとは甘い物好き? そういえば、練習フェチの落合伸昭さんは、たまにですが、チョコレートを何枚も一度に食べます。

10月13日 朝食
ホテルでバイキング。西洋風のスクランブルドエッグとか、中華風チャーハンとかなんでもあるのですが、17ドルも取られます。いろいろなフルーツを食べられるだけがお得な感じ。

10月13日 昼食
タイ料理屋で6ドルだったかのランチセットのレッドカレーとシンハビール(タイのビール)。偶然、ホノルル空港で出会った松田さんと同部屋の斉藤さんと一緒になりました。食後に女性たちのお供でサングラスショップとアロハシャツショップに行きました。通訳やら品選びのお手伝いをしながら、自分用に安物のサングラスを買いました。もちろんこれは失敗でして、鼻の低い、あるいは頬が高い日本人には合いませんでした。松田さんはオークレーを買ったのですが、もちろん、大阪人ですから値引き交渉が始まりました。値引き交渉の通訳は苦手ですが、かなりの値引きはしてくれました。でも、正直に申し上げますと、店主が最初に提示した値引率のままでした。松田さん、ごめんなさい。斉藤さんは、アイアンマン・ニュージーランドの45−49歳でスロットを取った可愛らしくて年齢不詳の雰囲気の女性です。現代美術家の大柄のご主人のために20ドルくらいの安物のアロハを買うことになりました。どのデザインにするか選ぶように言われて、目についたものをぱっとつかんだですが、芸術家のお気には召さなかったかも。斎藤さんは田無のA&Aで練習しているとのことですから、落合直紀さんはご存知ですね?

10月13日 夜食
カーボパーティ。アルコールはありません。3000人分くらいの席があっただろうか、立食ではありません。アイアンマン・ジャパンで30分以上も並ばされたことから見れば、はるかに手際よく組織されていました。なによりもよかったのは、ステージが始まる前に食べ、飲み始められることでした。ご存知の通り、日本では挨拶が終わって乾杯の音頭で食べ始めることになっています。サラダが3種類、ラザニア、マヒマヒ(マナガツオ?)、ポーク、パン、ケーキなどでした。

10月14日 朝食
ホテルの17ドルバイキング。本吉さんの娘さん夫妻とお孫さんと一緒でした。考えてみれば、本吉さんと塚越さんはどこにいってしまったのだろう。

10月14日 昼食
メキシコ料理店で3種類のタコスとビールをひとりで楽しんだのですが、量が多いだけでした。ハラペーニョソースでもかけて辛くすればよかったのかなあ? お土産にハラペーニョソースを買ってきてスバゲッティとか焼きそばにかけています。

10月14日 夕食
スーパーマーケットの横にある中華食堂でチャーハンと鶏の煮たものとコーク。塚越さんは昼食抜きだったので、チャーハンにおかずを2品取っていました。どんな中華料理店でも一応は食べられるというのが、世界を歩き回って得た経験則です。いちばんひどかったのは、大昔のワルシャワにあった上海飯店ですが、それでも、たまに行けばおいしいと思ったくらいです。

10月15日 レース日の朝食
水で戻せるおもち、前夜から水で戻しておいた赤飯。おもちは、本吉さんが日本から持ってきていたのりとしょうゆで食べました。このおもちですが、水っぽいのですが食べられます。赤飯は家にあった非常食から盗んできたのですが、水で戻したなんて信じられないくらいおいしいものです。

10月15日 レース中のランチ&ディナー!
カーボショッツ、パワーバー、パワージェル、ウイダーゼリー、ういろう、チューブ入り練り梅。バイクとランの中間地点で受け取れるスペシャルバッグには、水で戻した山菜おこわのおにぎりと生味噌の味噌汁の素を入れておきました。ところが、延々と続く上り坂を登ってバイクのスペシャルスタンドに着いてみると、私のスペシャルバッグがありません。「What happened?」と責任者風のおじさんに尋ねたら「I don’t know」? それからしばらくはおこわのおにぎりが頭の中を舞っていました。ディナーは夜9時頃だったか、ランの折り返しにあるスペシャルスタンドで受け取った山菜おこわのおにぎりと生味噌を暗闇のなかで歩きながら食べました。このおいしかったことは言い尽くせません。

10月15日 レースゴール後、深夜12時頃のサパー
ホテルのスーパーで買っておいた日式海鮮拉麺というカップヌードルとビールですませました。レース後の食事とビールのおいしさは、レースでの消耗度と反比例するのですが、結構、おいしく食べ飲みました。ランでたくさん歩いたので疲労度が少なかった?

10月16日 レースの翌朝の朝食
朝からアルコールのあるところを求めてメキシコ料理屋でブリトーとブラディメアリ(ウオッカとトマトジュースのカクテル)。もちろん、ひとりでした。佐渡の「旅館浦島」の朝風呂と自販機で買う発泡酒が恋しかった。

10月16日 昼食
ベトナム食堂で海鮮フォー(ベトナム風細いうどん)とビール。別の皿に盛ったもやし、パクチー(香菜)、ハラペーニョ(緑の唐辛子)が出てきたのですが、サラダとして食べるのかフォーの上にのせるのか分りません。しばらくして隣のテーブルに来た外人と現地人の女性が野菜を麺の上にのせるのを見たときは遅かった。調子に乗ってテーブルにあるレッドチリソースを野菜にかけて食べていました。あわてて、麺のうえにのせたのですが、レッドチリとハラペーニョの相乗効果でほんとうに辛かった。でも、おいしかった?

10月16日 夕食
アワードパーティ。メニューはカーボパーティと全く同じでした。ただし、生ビールが飲み放題でした。数千人の人が同じものを食べていると思ったら文句なんていえません。決して、まずいものではありませんでした。

10月17日 朝食 
ホテルの下にあるスーパーでビールと手巻き寿司2本を買って、それですませました。

10月17日 朝酒&昼食
街をぶらついていれば酒飲みの集まる店はすぐ見つかります。昼前から地元のおじさんたちが飲んでいるバーを見つけて、最初はおとなしくバドワイザー、グラスをくれないので瓶から口飲み、次は健康的に?ブラディメアリ。地元の人間でない客はひとりでした。午後から4200メートルの山頂に行くので飲みすぎはいけないと席を替えて、ローカルの食堂でロコモコを食べました。ハワイ料理?でライスの上に干からびたハンバーグが2ヶと目玉焼きが乗っています。それにかけられるグレービーが勝負だとか。ビールも飲んだはずです。

10月17日 早い夜食
午後からマウナケア山頂ツアーに参加して、夕方3000メートルにあるオニツカセンターで日本の幕の内弁当を食べました。暖かいお茶もついていました。おいしかったとは言いたくありません?

10月18日 朝食
朝5時、タクシーに乗ってコナ空港へ。前述の馬橋さんに付き合ってもらってホノルル空港でサミュエルアダムソンのブラウンビールとパンをくりぬいて器にしたチリ(豆スープ)でした。

10月18日−19日
飛行機の中でどうでもいいようなものを食べ、成田から新宿までの成田エキスプレスでは助六寿司とビールでした。おまけですが、19日の夜は三鷹の「和民」でした。


日付は戻って10月12日の昼近くです。コナ空港に着くと塚越、本吉さんがバイク試走ついでに出迎えにきてくれていました。松田さんとタクシー相乗りでホテルへ。初めてのハワイの風景は、熱帯の岩と枯れ草の高原に見えるのですが、眼をそらすと海が見えるので高原ではないことを知ります。昼食後、日本人向けの説明会に遅れて着くとウイットさんが巧みな日本語で説明していました。7メートル・20秒のドラフティングルールの説明がありましたが、ドラフティングする相手もされる相手もいないので関係ありません。この日は、時差ぼけのせいもあっておとなしく寝ました。夜中に目が覚めてしまいメラトニンを服用しました。

10月13日7時にスイム会場に行きました。ここが、トライアスロンの聖地、トライアスロン発祥の地の看板があります。ゲータレードのテントにシャツなどを預かってもらって海に入りました。ウエットスーツを着ていなくても身体がすっと浮きます。これなら問題ないと思ったのですが、結果的にスイムの記録が悪かったのはウエットスーツなしだったためなのでしょうか? 泳ぎ始めて下を見ると色とりどりの熱帯魚が泳いでいます。宮古島では熱帯魚が泳いでいるのでびっくりしたのですが、ここの魚は宮古島より大きいのはアメリカ育ちだからでしょう? 水温は低くも高くもなくちょうどいいくらいでした。

朝食後はひとりでバイクに乗りました。キングカメハメハホテルを出るといきなり上り坂です。見た目よりきつい坂をのぼってハイウェイに入ります。太陽光が皮膚に痛く、目にまぶしい。道路わきは枯れ草か溶岩、ところどころにピンクや白い花が咲く潅木があります。道は大きくうねってアップダウンが続くのですが、周囲の景色に変化がないので斜度を実感できません。スピードの変化で坂のきつさが分るだけです。コナ空港往復27kmの試走でした。見知らぬ風景のなかを走りました。

午後はEXPOやら近所の店をのぞいたりしながらお土産の品定めをしました。18時から始まるカーボパーティの入口に17時過ぎに並びました。いい席をとるためのようです。何千人分の席が並んでいるのですから、遅くなるとステージが米粒くらいにしか見えない席しか残りません。それから、飲食が5時半くらいから始まるので、さほど待つこともありません。18時開場という言葉を信じて遅く来ると場末に坐ることになります。

カーボパ−ティは、ポリネシアの歌と踊りのグループのステージから始まりました。地元の政治家などの挨拶はありません。話題性のあるエイジグルーパーの紹介はあったのですが、プロ選手の紹介もありません。選手だけではなく一緒に来ている家族、友人たちも楽しめるパーティになるよう構成してあります。選手はレースのためですから、どんなにつまらないパーティでも我慢します。でも、家族と応援のひたたちが、楽しめるようにしなければいけません。えらいひとの挨拶がないなんて最高の演出です!

10月14日 レース前日です。車検があります。ハンドルの部分をにぎって強くゆすり、がたがないか、ブレーキがきくかをチェックしてアイアンマンシールを貼ってくれます。ボランティアがつきそってくれて、バイクスタンドへ。そして、バイクバッグとランバッグをラックにつるします。スイムゴールから始まるバイク、ランへのトランジションの動線の確認をします。自分のバッグがどこにあるのかを覚えます。バイクがどこにあるのかを忘れないようにしなければなりません。記憶力が低下しているとかなりのロスタイムになるはずです。

午後は、アイアンマン用品の店、あちこちに臨時開店しているスポーツ用品のブランドショップを覗いてお土産と自分のものを買ったり、EXPOでは無料でもらえるものを集めたりしていました。でも、タイミングが悪いのか気が弱いのか、たいしたものをゲットできなくて、その道の達人塚越さんからおすそ分けをもらったりしました。小さな水槽に水の流れをつくる器具を取り付けたプールの実演を始めて見ました。トレッドミルのスイム版ですが、泳いでいる人は普通に泳いでいるように見えました。

まだ、時差ぼけが解決していません。夜10時頃に就寝したのですが、12時過ぎには目が覚めてしまい起床時間の3時半まで輾転反側していました。昔のように寝られないとあせることはありません。

10月15日 レース当日
朝食後、真っ暗ななかを会場に行ってマーキング、レースナンバーを両腕に判で押しもらい、バイクセッティングをしました。フロアポンプには、空気圧の表示が見えるように接着テープで小型の懐中電灯をつけてあります。いったんホテルにもどって一休み、といっても落ち着いてというわけにはいきません。

6時頃になってスイムスタートの浜辺にいきました。途中、ボランティアが背中に日焼け止めを塗ってくれました。アップのために少しは泳いだのですが覚えていません。6時45分プロがスタートしました。フローティングスタートなのでスタートラインのところは足がたちません。長い時間を立ち泳ぎで待っていたくないので、スタートライン近くの桟橋につりさがっている自動車のタイヤにつかまってスタートを待っていました。ワシントンからきたという若い女性の選手と「スタートまで、あと何分?」「7分よ」と答える唇が魅惑的でした、なんてね。

どーんと大砲が鳴り、横幅ひろく広がった1800名の選手の一斉スタートです。スイムの実力にあわせて後ろからスタートしました。バトルに巻き込まれて息があがると、とんでもない目にあうことは知っています。沖に向かって1900m、写真では知っているヨットを折り返すコースです。大きなブイを目標に泳ぐのですが、ブイとブイの間隔が広くて次のブイが見えません。自分はまっすぐ泳いでいると信じるか、隣の選手がまっすぐ泳いでいると信じてついていくかだけです。海の透明度は高く、折り返しを過ぎると、朝日が差し込んで海のなかが青色になります。熱帯魚に気づくようになるのは、この頃からです。この大会では、左足のふくらはぎに年齢が書かれています。折り返しを過ぎてまわりを見ると、4,5名のグループが老人クラブになっていました。52歳のおばさんが右側、60歳のおじさんが左側、74歳のおじいさんと抜きつ抜かれつしています。やはり、3.8kmは長い。ようやく砂浜に足がつきました。よろけてトランジションに歩いていくと、ポリネシアのおじさんが踊りながら迎えてくれました。1時間49分。かなりがんばったつもりなのにタイムが悪くてがっかり。遅くても1時間40分のつもりでした。やはり、ウエットスーツなしだからでしょうか。

バイクバッグを取ってテントで着替えて、バイクスタンドに行って愕然としました。残っているバイクはほとんどありません。私のまわり、すなわち、年寄りのバイクが少々残っているだけです。ハワイで驚かされたのは老人パワーのすごさでした。スイムでもバイクもランでも、私より年上のじいさんばあさんが、私を抜いていきます。完走した男性の最高年齢は80歳、女性は75歳でした。この女性はシスターとのことですから、修道女? きっと男なんていう馬鹿な生物を相手にしていないから「清く、正しく、速い」のでしょう。

スタートして10マイルくらい走って、スタート地点の近くもどったところのきつい上り坂で、金丸夫妻と本吉さんの娘さん家族の大応援団が元気づけてくれました。後で写真を見ると路面には、293 SEKIYA 関谷とチョークで書いてありました。有名選手になったみたい? まだ、元気です。試走で長いアップダウンが続くことは分っていました。でも、折り返しのHAWIまでにこんなにのぼりがあるとは想像していません。地平線まで続くのぼりがあったりするのです。噂に聞くバイクが飛ばされるくらいのコナウインドは吹いていません。しかし、往きは向かい風です。右足の太ももが痛くなり始めました。つらないように負荷をあまりかけないようにします。そのうちに、右の足の裏がしびれてきました。シューズを緩めて足の指を折り曲げたりします。ランで右足がおかしくなることは覚悟していました。できるだけ、バイクでがんばってランの時間をかせいでおくつもりでした。しかし、こんなに早くからバイクでおかしくなるのは想定外でした。トップグループの選手たちとすれ違いました。ゴーと風を切る音がしたような気がします。単調な道が続きます。写真でよく見る溶岩の横を通り過ぎます。もう走り続けるだけで精一杯です。苦労した甲斐があって?バイク終了は予定通りの10時間でした。制限時間は10時間30分です。

まだ、7時間残っている! こんなにうれしかったことはありません。ランニングパンツになって走り始めました。どこまで走れるか分りません。最初の10kmは、なんとか走り続けたいと思っていました。しかし、バイクでの疲れが予想以上だったのか、足の調子が悪過ぎるのか2、3kmも走ったところで歩かざるを得なくなりました。それからは、延々と歩いたり走ったりの連続です。追い越していく選手は必ず声をかけてくれます。「Good job」「Good jogging」「Well done」(ステーキじゃないよ)「Keep moving」などいろいろです。最高に気にいったと同時に強く反省したのは「Keep smiling」と言われたときでした。つらそうにしかめっ面で走っていたと思います。これからの人生の標語にしたくらいです。「KEEP SMILING!」

キロ9分ぐらいで走り続けているおばさんがいます。「私は止まったら走り出せないの」と言っていたのですが、ゴールは私より早かったはずです。最初から最後まで歩き続けている選手もいます。しかし、歩くスピードはかなりのものです。このおばさんとおじさんのペアとは抜きつ抜かれつ30kmくらいまで一緒でした。もちろん、ゴールは私の方が早かったはずです? 16km地点で金丸夫妻が待っていてくれました。心配そうな顔をしていました。もう暗くなっていました。応援って、ほんとうにうれしいものなのです。ハイウェイに出ると街灯はなく真っ暗闇です。でも、満月三日前の月が出てきました。月明かりのもとをとぼとぼ歩いています。1マイルごとのエイドステーションが待ち遠しいのです。数百メートル走ると足がいうことをきかなくなります。歩きます。ちょっと歩いて走り出します。だんだん走る距離が短くなってきます。夏くらいからずーっとこんな状態でした。

アイアンマン・ジャパンで年代別一位になったことは奇跡でした。私の実力を知っているひとたちは分っていることです。その後、原因不明の故障を起こして1kmも走ると右足が重くなって走れない状態になりました。あわてて、マッサージとか鍼に通いました。完走できないかもしれないと不安になりました。本番のレースでは奇跡がもう一度起きて走れるかもしれないと淡い期待を抱いていたのですが、奇跡は一度だけでした。故障の原因はハワイ出場へのストレスだと言うひともいたのですが、ハワイが終わって1ヶ月過ぎたいまも同じ状態なので、整形外科で首と背骨のレントゲンを撮りました。首は一ヶ所骨と骨の間が狭くなっている、背骨は一ヶ所ずれていて2,3ヶ所に突起が出ているとのことでした。そして、結論は、骨の変形は治せないとのことでした。どうすればいいのですか。

エナジーラボで折り返し、気が遠くなるような6時間が過ぎたところあたりで、コナの街の灯りが夜空に反射しているのが見えるようになりました。73歳だったか、気が強いじいさんに追いついたのですが、抜くと抜き返してきます。こんなびり同然のところで争っても仕方ないと先に行ってもらいました。がんがん鳴っているロックが聴こえてきます。ひとびとのざわめきも聴こえるような気がします。道端に坐って応援してくれるたくさんのひと達が声をかけてくれます。日本人もいます。ポリネシアのひとも、いろいろなひとがいるはずです。照明された花道が見えてきました。金丸夫人が隣を走ってくれます。ご主人が笛を吹いてまわりを盛り上げてくれます。大きく手を振りハイタッチをしながらゴールに向かいます。ゴールのときに涙がでるかもしれないと思っていたのですが、もう枯れていた? 今になって思い出すと涙が出そうです。ゴールラインをぴょんと跳び越えました。その勢いで不覚にもよろけてボランティアのおじさんとおばさんに支えてもらう始末でした。このよろけているゴールが、アワードパーティで大きく映写されてしまって一躍有名人?自慢することではないか。

「悪い癖、爪を噛むのはー」ではなくて、「制限時間ぎりぎりまで使うのは」です。今年のアイアンマン・ジャパンでも去年の佐渡でも残すところ数分でゴールしています。でも、今回は43分も余裕があるじゃないですか。16時間17分01秒、総合1664位/1687人(完走)/1743人(スタート)、年代別22位/23人(完走)/24人(スタート)。日本人は98人が完走して私は98位です。まあ、なんと言っても世界の22位だあ。

付録:

マウナケア日没&天体観測ツアー

いろいろな国には行っているのですがハワイは初めてでした。早速、旅行ガイドの本を買ってきてぱらぱらとめくった結果、活火山のキラウエアが一番面白そうだったのですが、丸一日かかってしまうので、午後から行けるマウナケア・ツアーにしようと思っていました。レースの翌日、ホテルにあるツアー会社で空席があるか聞くと一席だけ残っていました。いつも満席で取れないそうなのですが、カップルでないことが幸いだったようです。13人乗りの四駆で、若いカップルが4組、女の子のふたり組、母と娘、そして、半端なわたしでした。

午前中、バーで一杯ひっかけてから昼食でビールを飲んでいい気持ちでうとうとしているうちに、ツアーの集合時間に遅刻しそうになりました。ガイドの日本人のおじさんに「お酒飲んでいて大丈夫? 4200mまで登るのだけど」と言われてしまいました。富士山の頂上にいったことはないけれど、日本で二番目と三番目に高い山(どこでしょう?)には登っているし、アイガー、マッターホルン、モンブランの乗り物でいける最高地点までは登っているので、4000mくらいの経験はあるよ、と内心は思っていました。

ぽつりぽつりと点在するリゾートホテルを回ってお客さんをピックアップして、山に向かいます。途中、アメリカの西部のひとたちが開拓した地域を通り過ぎたのですが、牧場になっていて映画で見る西部の雰囲気につくってありました。このツアーの誓約書、高地に登る危険性を納得していること、もし、ひとりでも具合が悪いひとがでたらツアーを取りやめて引き返すことを承諾することなど、署名させられました。

3000mにあるオニツカセンターで高度順応をかねて早い夕食を食べてから、日没時間に合わせて4200mまで四駆で一気に登ります。頂上にはいくつかの天文台が並んでいて、そのうちのひとつが日本のすばる天文台です。ツアー会社から貸与されたダウンジャケットと着ても寒い。アルプスの4000mなら鋭い岩峰が連なっているのですが、ここはなだらかな斜面が続いているので高度感がありません。冬は雪がかなり積もってスキーができるそうです。

壮麗な日没を見てから3000mに戻り、天体望遠鏡を使って星の観察をしました。大昔、渋谷のプラネタリウムに何回か行ったことを思い出しました。こんなロマンチックな時代もありました。誰と行ったかは秘密です。

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