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「ハッハッ」、「ドンドン」。「ハッハッ」、「ドンドン」。まるで蒸気機関車のような音で後から迫ってくるのは隊長。ゴールまで後2キロ弱。5キロを過ぎてから、靴の紐を3度も結び直したロスに加え、8キロ手前のの折り返しで足を滑らせ膝を打ち、前を追うどころか、ジャムおじさんに抜かれ、隊長の息遣いと足音が近付いて来るのだ。膝の痛みで踏ん張りも利かず、逃げる力も気持ちも萎えかけている。追い越されるのも、もう直ぐだろう。
2月10日、2008年の鉄人デュアスロン第一戦。3,4日前からの天気予報で、恐らく当日は雪でスイムしか出来ないだろう、と決めていた。1月の終盤からはほとんど練習をしておらず、いつものことながら、付け焼刃で臨むことになりそうだったので、内心、雪乞いをしていた。案の定、前日夕方遅くから降り出した雪は積もる気配を見せていた。ただ気がかりは、当日の予報は晴れだったこと。そして迎えた朝。これまた案の定、雪は止んでおり、しかも、思っていたほどの積雪もない。唯一の頼りはランニングコースがぬかるみ過ぎていること。それを願いながら会場へ向う。しかし、天気は益々回復傾向にあり、結局、スイムは、ランも予定通り行われることを想定しての開始となる。
私のスイムコース順は、深い方のプールの第二組で、ゲスト小林さんと同組に決まった。ところが、第一組でスタートするはずの人が時間になっても更衣室から出て来なかったため、急遽、第一組のツカさんと泳ぐこととなる。因みにその人はキャップ、ゴーグルは言うに及ばず、水着も忘れて店まで買いに行っていたとか。どおりで、泳いでいる途中で見慣れない水着の女性がプールサイドに立ってるのが見えたはずだ。まぁ、それは後の話で、スタートする時には、このところ好調さとアップでの感覚で、これまでのベスト23′53″は十分にクリアできる、確信していた。300〜400mくらいまでは、ツカさんと殆ど同じペースで泳いでいた。プールサイドの時計が目に入るが、ゴール予想23分そこそこの、少し早め入りのような気もする。500m辺りからツカさんを少しずつリードできるようになり始めたものの、乳酸も溜り始めた。
ところで、私は、23年前にトライアスロンを始めるまで、木槌だった(決して金槌ではないが、前に進まなかった)。私の育った所は、瀬戸内海に面した人口10万人ほどの地方都市で、当時は、市営プールがある他は、プールのある学校は市内の中学、高校にはそれぞれ一校ずつしかなかった。だから、海に潜ってサザエを取るのは得意だったが、生まれて初めてクロールというものを知ったのは高校1年の体育の授業だった。しかも、私は陸上部に所属していたのだが、当時(今から30年余り前)は、野球部や陸上部員は、「筋肉を冷やす」という理由で、水に浸かるのはご法度だったこともあり、腕は平泳ぎ、キックはバタ足という「自由形」で25mを泳ぎきるのがやっとだった。なお、この時の体育の先生は学生時代、水球で日本代表にもなった経歴の持ち主で、当時はまだ新しすぎて常識はずれだった平泳ぎの「田口キック」を教えてくれたり、スポーツの準備運動は、そのスポーツの動きと同じ動きで入っていった方が効率的だ(これはこの後述べる、私の今のスイムの練習でも意識しているのだが)という、新しい考え方を持ったいたのだが、それでもまだ、古い考えが支配していた時期だった(有名な話としては、運動中に水分は一切摂ってはいけないとか、うさぎ跳びが持てはやされていたとか・・・)。ただ、海辺育ちだったので、波に対する恐怖心はなかったのが、トライアスロンをやってみようという気持ちには繋がっているは確かだ。
初のトライアスロンレース(らしきもの)のスイムはプールで行われた500mだったがクロールで泳げたのは200m迄、初めての海でのレース1.5kmは40分、これが私のスイム事始だ。そこから5年ほどで27分台、さらに5年ほどで25分台迄縮めて来たが、25分の壁は、絶対に越えられない、と思っていた。50mを50秒。このペースが1000mを越えるとどうしても持たなくなってしまう。だから、練習でも25に近づけば良いや、という意識でやっていた。ところが、その壁を思わず越えられる時があった。そして、一度越えてしまうと、今度は、悪くても25分では泳ぐ、という意識で練習をするようになった。そして、今は悪くても24分(50mを48秒)を意識している。では、どのように意識するのか。
ここで、先の高校の体育の先生の話に戻るのだが、アップも含めて常に、自分の身体に50mを48秒以上かかるような動きをさせない、ということを意識している。かと言って、早すぎてもいけない。少なくとも週に1回はタイムトライアル的に1500mを通しで泳ぐようにしているが、体調やプールの込み具合によって目標タイムで泳げなくなる時には、例え途中であっても止めてしまう。50m48秒±2秒くらいの動きを身体に覚え込ませる。だから、キャッチアップとか、片手泳ぎとかは一切しない。そして、50m、100mのスピード向上も大事だが、持続力をつけペースを覚えるためには、長い距離を一本泳ぐメニューも入れなければならない。その時も目標タイムを下回る泳ぎはしてはいけない。かと言って早すぎてもいけない、と思っている。そして、一つの目標が達成できれば(どんな時にでも目標タイムで泳げるようになれば)、安心して欲も出て次の目標にチャレンジできる。
私の個人的な考えでは、昨年の世界陸上で、400mHの為末選手やLJの池田選手の記録が伸びなかった一つの理由としてはスピードをつけるトレーニングに偏っていたのではないかと、思う。スピードが付くのは良いが、それにともなってハードリングや助走技術も併行しなければ、歩幅が合わなくなり一つの種目としては完成できない。スイムも、インターバルだけでなく、ペース泳も取り入れないとバランスが取れないような気がする。インターバルなどで速い泳ぎに慣れたフォームで、レースペースに落とすと、身体も沈んでしまう。私は、インターバルは補助的なトレーニング(週1回、マスターズコースで行う程度)にしている。因みに、ヨーコと練習する時は、ペース泳500×3+インターバル50×10のメニューが多い。速い泳ぎとレースペース、これを上手く交えながら階段を上るような目標を持って練習して来た。皆さん、高校生まで泳げなくても、50歳を過ぎても、まだまだ、泳ぎは進化出来ますよ。
そのような練習をして来たが、終わってみれば23′36″。ベストは更新したものの、1000m以降を踏ん張ればもう少し縮められた気がする。ツカさんに勝てそうだ、ということで満足し、記録を意識しての追い込みができなかった。700m以降は、折り返すたびに1ストローク分開いたとか、変わらなかったとか、そちらに気持ちが行ってしまった。バイク、ランは論外なので、せめてスイムだけでもツカさんに勝てるというのは望外のこと。だから、ツカさんとの勝負にドーパミンを使い果たした。それだけ、私にとってはツカさんは高い壁なのだ。
スイム終了後、ジャグジーで寛いでいると、「ランの用意をしてロビーに集合。」との声がかかる。やはりランはあるのだ。コースに出てみるとぬかるみと水溜りはあるものの走れない状況ではない。覚悟を決めて走り出した。直後、ツカ、モト、ダニエル、イヤミがトップグループを作り、直ぐ後をゲスト小林、少し離れてヨーコ、私の順になる。2キロを過ぎて、トップグループのスピードが上ったように見えた。ツカが抜け出たようだ。イヤミは黙っていてもその内、落ちてくるだろう。ヨーコと一緒にゲスト小林を追う。3キロを過ぎて、差が広がらなくなり、5キロ辺りから少し縮まったようだ。ヨーコには以前、「10キロで私に勝つとしたら、5、6キロ辺りからロングスパートして、ラスト1キロまでに20〜30秒くらいは離しておかないと、最後のスプリントで負けるよ。」と言っておいたので、どれだけ学習しているか試してやう、と思っていた。ところが、右の靴紐が解けているのに気づいた。結び直している間において行かれ、さらに、しばらく走るとまた、解けた。結び直して走ると、又解ける。結局3回、結び直している間に3,4周目のラップはそれまでより各々40秒ずつ遅れた。日頃、「紐はちゃんと締めなさいよ。」といわれていたこちらが試された結果になってしまった。ヨーコは最後、かなりペースをあげたようだ。天然キャラながら、ここぞの集中力だけは感心する。
そして私は、今、隊長から追い上げられているのだ。8キロ過ぎ。追い越された。そのまま、10m程、一気に離れて行く。ところが、隊長の脹脛と懸命の走りを見ていると何だか私もまた、力が湧いて来た。1952年のヘルシンキ五輪の長距離王者のザトペック(チェコ)は、その走る姿の力強さから「人間機関車」と言われたそうだ。現在のマラソンランナーとは違って筋肉質な体型で、必死で前に進もうとしているザトペックを私は写真でしか見たことはない。しかし今、目の前では隊長が走っている。隊長のトライアスロンと酒に向かい合う真摯な姿には頭は下がりっ放しだ。きっと、隊長は、自分のドーパミンを、汗と息と一緒に回りに振りまいているのだろう。よし、真剣勝負には、最後まで真剣に臨もう。残り1キロ、もう一度、スパートだ。